ジュエリーブログ,ニュース / ジェムランド

2011/2/15 火曜日

[宝石学の世界]発行人 謹啓

Filed under: ジュエリーコラム, ジュエリーリフォーム — ジェムランドeditor @ 17:07:03

昨日のバレンタインデーで思いだしたのは、初めてアメリカでバレンタインデーを過ごした日の驚き。当地では男性から女性へのプレゼントが主流だった。バレンタインデーとは女性から男性にプレゼントをする日という私の常識を覆しただけに驚きが大きく、それから20年以上を経た今もこの日を迎えると当時ビックリした記憶が蘇る。

常識とは社会一般が広く同意している事柄と言い換えて良いだろう。バレンタインデーの件でいえば私の常識は日本国内でのみ当てはまって国際的には当てはまらなかった訳だから、自分の“常識”が他者からは必ずしも常識ではないという教訓になった。ジュエリー制作においても然り。常識に捕らわれると失敗する可能性がある。例えばガラス充填されたサファイア※を加工する際などで起こりえる失敗だ。

カラード ストーンに加工用バーナーの炎を当てると、ある種の宝石の色が変わることがある。ブルー トパーズは退色するし、ブルー サファイアも空気中で加熱すれば退色する。職人はこの事を知っているから宝石に直火が当たるような加工方法は採らない。しかし、ブルー サファイアが少し炎に晒されただけで直ぐに退色する訳ではなし、爪の修理などで、仮にちょこっと石に火が当たる程度では問題がないという常識に寄りかかると、キャビティ(石表面にある穴)にガラスが充填されていた場合、熱に強いサファイアと異なり、ガラス部分は表面がただれたり、ガラス中の気泡が熱で膨張して破裂する可能性がある。

こちらに掲載しているガラス充填処理が施されたサファイアは、業者向けに裸石を販売する店で、処理の情報は開示されずに販売されていたもの。パビリオンにガラス充填大きなキャビティがある。枠に留まっていたら、うっかりすると見落としかねない)

石留め中の割れが代表だろうが、ジュエリーの修理やリフォームに携わる方は、かなり高い確率で修理中の石の破損で苦労をした経験をお持ちなのではないだろうか。石の破損は、宝石の耐久性や処理の知識を持ってそれに適した対応を取ることで減らすことができるが、ジュエリーリフォームやリモデルの知識を啓蒙する役割を果たしているのが一般社団法人 日本リ・ジュエリー協議会であり、同協議会の実施する[ジュエリー・リモデル・カウンセラー検定]では知識を吸収しながら資格を得ることができる。この度、第二回目の試験が実施される。

また同協議会ではこの度、ジュエリー・リモデル、修理に関わるリスクをカバーする保険をスタートさせるという。ニーズは高かったが職人や宝石店が個々に損害保険会社と交渉しても門前払いの保険だっただけに歓迎できる取り込みだ。

[宝石学の世界] 発行人 福本

2011/2/8 火曜日

21世紀の提言 - IJT雑感

Filed under: ジュエリーコラム — ジェムランドeditor @ 12:40:07

 

26日から開催されていたIJT。今年は何年かぶりで4日間通いました。会場は昨今の宝飾品市場の影響もあってか、やや手狭になり、その上高級雑貨と時計のパビリオンができたので、ますます宝飾品業界の貧困さが浮き彫りになったように思います。

しかし入場者は反対に4日間通じて、増えたのではないでしょうか。相変わらず真珠や色石関連のブースには人だかりが多く、製品のブースにはよほど興味が無いと人だかりはしていなかったように感じられました。

今回の展示会でいくつか興味を引いたものがありました。ひとつは甲府のメーカーKが「JIZAI」というブランドで、面白いジュエリーを展示していました。私はこのところ自在置物に傾倒しており、その関連で何人かの方とも知り合う事ができたのですが、流石に同じような事を考えている人はいるもので、完全に先を越された感は否めません。
しかしながら、仔細に商品を観察する事ができたのですが、私が考えている自在ジュエリーとは些か世界が違うような気がしたのは幸いでした。現在何人かの作家の方に自在のテイスト含めたジュエリーの制作を依頼しており、それらの形が見えるようになってくると、はっきりしてくると思います。

自在置物は昆虫や虫の超リアルな世界を金属で表現したものです。この超リアルと同じレベルで写実という視点で見ると、千葉県に日本で初めての写実美術館ができたのですが、私はまだ訪れていません。最近色々な分野で、写実が見直されてきているように感じます。ジュエリーの世界も、一頃のリアリズムが影を潜めていたのですが、もしかするとリバイバルの兆しが出てくるかも知れません。もっとも写実的なジュエリーの制作はそんなに簡単にはいかないので、誰でもできるというものではありません。似て非なるものはCADの発展もあり、数限りなくでてくるでしょうが、精度の高いものは果たしてどうでしょうか。

今回製品で面白いと感じたのはKのブースでした。大手の企業だけあって、現在のトレンドを調べ、いくつかの観点から提案型の新作を展示していましたが、いくつか参考になるものがありました。

真珠ではやはり天然真珠でしょう。コンクはもはや貴重品ではなくなりつつあり、今回もいくつかのブースで見る事ができました。その中でもレベルの高かったのは御徒町のM真珠のコレクションでしょうか。タイラギやアワビ、ホタテなどの逸品が陳列されていました。アワビはカリフォルニアとニュージーランドで産出されますが、貝の種類が些か異なります。

変わったところでは、S真珠がマベのラウンド、ゴールデンを陳列していました。お気づきの方もいらっしゃるでしょう。マベはご存知のように半円(半径)真珠ですが、何年か前からラウンドに近いものを養殖するようになりましたが、色とテリの無さと云う点で私はあまり評価していません。今回のゴールデンも貴重品と云う点では見るべきものがありましたが、真珠の品質と云う点になると、首を傾げざるを得ません。

ところで先ほどのM真珠のブースでは、淡水のバロックを見る事ができました。このバロックはテリといい、色といいかなりのものです。中国産の淡水もここまで良いものができるようになった事は驚きです。また神戸のPEが唯一ケシの品揃えをしていました。この会社は香港でも常連ですが、IJTでは初めて見ました。現在品質の良いケシは市場からなくなってきており、このようなケシの良いものが見られるのは幸運です。

反対にダイヤモンドや色石は殆ど見るべきものがなかったように思います。香港やバンコクなどに行くと、ものすごい逸品ものが展示されていますが、残念ながら日本では殆ど見る事ができませんでした。海外からの出展もみな小さなところばかりだったような気がします。ダイヤモンドや色石は完全に市場が違うのではないか。このようなところにも日本が国際競争力から取り残されているのを感じます。

海外のブースでは、やはりイタリアブースの製品が目に留まりました。全体にジュエリーのデザインは一歩先んじていると思います。しかしながらイタリアは日本の市場に対してどのような認識を持っているのか。2、3のブーで聞いてみましたが、私の意図を理解していないのか、はっきりした返事はもらえませんでした。

ドイツやフランスは小さくまとまっており、まだまだ日本の市場で競争するレベルではないようです。香港や韓国なども日本市場をそれほど重視しているとは思えず、それは大手企業が出展していない事でも判ります。

デザイナーブースでは一人の作家と出会う事ができました。これからどのような付き合いができるか、楽しみの一つです。しかしながら全体に低調で、人を唸らせるような提案をしているデザイナーと出会う事はできませんでした。

今回のIJTは初日、二日は中国人の招待客でごった返していたと云っても過言ではないでしょう。その中には半分以上が一般の消費者が混じっており、ブースでは明らかに小売で、値切りの交渉が声を大にして行われていた事も見逃せません。

数年前から日本の小売店の個客でしょうか、一般消費社の入場が目立ち、業界内では物議を醸し出していますが、これは完全に既成事実になっています。私は時代の流れからして止むを得ないと思いますが、このようななし崩し的なやり方は如何なものでしょうか。そろそろ宝飾品業界のはっきりした方針が出てくるべきではないかと思うのです。

IJTは相変わらずバイヤーの姿は少なかったように思います。数年前からこのような展示会には海外からのバイヤーが精力的に動き回っていなければ、真の国際競争力が身に付いたとは云えず、その事は事ある毎に様々な場面で云ってきましたが、完全に伸び悩みでしょう。苦肉の策が中国からの団体観光客では、本末転倒と云わざるを得ません。

確かに現在の世界をリードしているのは中国とインドですが、こと宝飾品ビジネスになるとまだまだ弱小企業の日本が出る幕はありません。日本の大手企業がビジネスとして本格的に乗り出していかなければ、将来性は無いと思います。中国やインドのダイナミズについていけないからです。

日本の宝飾品市場もどんどん縮小化傾向にあり、入場者は多いけれど素材や特価品などの半端な買い物しできない、いまの宝飾品市場。将来が明るモノとなるのはいつの事でしょうか。それまで私たちは何を考えどうしていけば良いのでしょうか。この答えは、今回のIJTでは見つける事はできませんでした。

増渕邦治(ますぶち くにはる)
ますぶちstyle ホームページ

2010/12/31 金曜日

謹んで新春のお慶びを申し上げます

Filed under: ジュエリーコラム — ジェムランドeditor @ 23:54:31

2011newyear2.jpg昨年10月末に生じた全国宝石学協会(全宝協)が自主破産を申請するというジュエリー業界にとっての衝撃的なニュースにも現れていますが、好況の気配を感じることのできない日々が続いています。この原稿を書いている昨年12月21日の日経平均株価終値はおよそ10,370円、一昨年同日は10,183円。このふたつの経済指標からもそれは見て取れるようです。

今年の景気も昨年並みに推移するであろうと予測しますが、底を打った不景気が上昇基調に転じる明るい気配があるのも事実です。

例えば2009年3月の日経平均が約7,054円を付けていたことを思えば、一度も9千円を下回らなかった2010年のそれは、卯年の本年に飛躍をするために堅くなった地盤と見ることができるのではないでしょうか。個々のウサギに強い跳躍力が備わっていたとしても、地面が柔らかくては高く飛ぶことはできません。堅い地面があればこそ高い跳躍が可能になるのですから。

また縁起担ぎでいえば、今年は“宝石の年”であることは心強く思います。十二支では卯年の本年ですが、十支では辛(かのと:金弟)の年にあたり、これは「宝石」の意味もあります。

皆さまにとって、本年が高い跳躍の年となり、そして宝石の如く煌びやかな年になることを祈念いたしまして、新年のごあいさつとさせて頂きます。

どうぞ、今年もよろしくお願い申し上げます。

有限会社フクモト・ロジスティック・システム取締役社長
株式会社フクモト・ロジスティック・システム・カナダ代表取締役
福本 修

2010/11/9 火曜日

模倣からヒット商品は生まれない

Filed under: ジュエリーコラム — ジェムランドeditor @ 14:29:00

とあるジュエリー制作会社のデザイン開発室に相当する部屋にお邪魔した際、本棚に並んだ図書を見て少々びっくりしたことがある。国内外のファッション誌がズラリ。もちろんジュエリーデザインにおいてトレンドを掴むことはとても大切な事だから、ファッション誌を見ることは意味がある。ただ気になったのは雑誌ばかりでモチーフの種になりそうな資料が見あたらなかったこと。真偽のほどは確かではないけれど、どうやらこの会社ではファッション誌だけを参考に、売れそうなデザインを抜き出して、それにアレンジを加えて製品にしている気配があった。

このような方法で開発されたジュエリーはそこそこ無難に売れるのだろうが、大ヒットにはならないことだけは断言できる。オリジナリティが薄いのだから、類似した製品は他にもあり、その商品を選んで買うという消費行動が生まれないからだ。

真に新しいモノやデザインを創出することのできる芸術家は一握りしか居ないのだろうが、それでも、ちょっとしたデザインのコツを知りさえすれば誰でもがユニークでオリジナリティに富んだジュエリーデザインを創り出すことができるようになる実例を、以前ジュエリーデザインを教えていた際に多く見た。

ジュエリーデザインの為に私が集めた資料を挙げてみる。動物、花、昆虫、魚の図鑑をはじめ建築やファブリック(布地・織物)、ヨーロッパの紋章や日本の家紋に関する本など。変わったところでは色々な生き物(カエルやワニ、蛇など)の皮を接写した写真集もある。北米に居住していた時は美術館に通って絵画の彫刻が施された額縁などをせっせと接写していた(日本の美術館のほとんどで撮影が許可されていないのは残念。空いている美術館・博物館に展示される著作権が切れている昔の作品は、フラッシュを使わない事を条件に撮影を許可するべきだと思う)ものである。

これらの資料から気になった形をモチーフとして選んで大きさを変えて重ねたり、形をゆがめたり、あるいは反復利用すると模倣ではない面白いジュエリーになる。

1900年前後にフランスを中心に勃興(ぼっこう)したデザイン様式にアール・ヌーボー(art nouveau)がある。昆虫などのモチーフが多く用いられ、角張った直線というよりも曲線美が重視された女性的なデザインであってルネ・ラリックの作品に代表されるけれど、その意味は新しい芸術(art=芸術 nouveau=新しい)だ。昆虫や曲線を用いた装身具は1900年になって初めて発見された訳でも過去に例がない訳でもないけれど、それらの美に着目をしてジュエリーとして昇華させた点にオリジナリティがあって新しかった。ラリックの作品にしてもそのデザインが天才しか作り得ないものだと私は思わないけれど、高い七宝の技術と大胆に配置された色石(時には視覚へのアピールを狙って張り合わせ石を採用してまで大きな石を配置した)などをアール・ヌーボー様式の中で表現したところが新しかった。

様々なデザインが出尽くしたと思われる現在でも、過去の模倣ではなく、過去から学び基本を思いだしてデザインをすれば、オリジナリティに富んだジュエリーデザインはまだまだ無尽蔵に創れる。ジュエリーが売れないという声を聞いて久しいが、模倣からヒットは生まれない。ユニーク(unique:他に存在しない)な製品でなくしてヒットとは成らないという当たり前のことが忘れられているのかと、冒頭の会社を訪ねて驚いたので駄文を連ねた。

以下蛇足。

上記でアール・ヌーボーを採り上げたのは、このところ毎日、来週18日にボジョレー・ヌーボーが解禁だなぁと楽しみにしているため。言わずもがな、ボジョレー・ヌーボーとはフランス ボジョレー地方で今年採れた葡萄で作られたワイン新酒のこと。恐らく昨年からだと思うけれども、ペットボトル入りも売られていますね。空輸代が節約できる分小売価格が数百円安くなっています。ペットボトルに入れることはフランスでも賛否両論いろいろあったと推察しますが、伝統産業の中から生まれた新しい試みとして私は好意的に捉えています。

ところで、意外に知られていないのがイタリアの新酒。こちらはノヴェロと呼んでいて、先日既に解禁となりました。お薦めはマルケ州ガロフォリ社のノヴェロ。いろいろ飲みましたが同社のものがダントツに美味しい。もしこの文章を読んでノヴェロを試してみようという方にはお薦めします。ただ同社の赤のノヴェロ用タンクは今年ひとつ壊れてしまったとのことで出荷量が少ないから品薄です。“赤のノヴェロ”とわざわざ書いたのは、白のノヴェロもあるから。こちらも美味しかったですよ。セパージュ(ブレンド)はヴェルディッキオとトレビアーノ。

福本

2010/10/13 水曜日

ジュエリー・ビジネス・トレーニング[初級講座]第4回:マーケティング概論(5)

Filed under: ジュエリーコラム, ジュエリー・ビジネス・トレーニング — ジェムランドeditor @ 14:36:34

商品[product]戦略(3)

個客・消費者を魅了する商品開発

いま宝飾品市場が低調で、どの小売店に行っても「売れない」「買わない」と嘆きます。確かに一昨年のサブプライムローンの破綻をきっかけに、世界同時不況という大きな波が日本にも押しよせました。92年のバブル以降長い間不況のどん底にあった宝飾品業界が、やっと上向きになるかと思われた矢先でした。

バブル崩壊の時までは、小売店にとって本当に大切な客でなくても、ジュエリーは売れた時代でした。それがバブル崩壊とともに一過性の客は店から離れていき、浮動票狙いの商品は在庫がかさみ、宝飾品業界も例外なくデフレに突入したのです。中価格帯のモノは売れなくなり、低価格帯のモノは海外勢に押されるといった傾向は21世紀まで続きました。

日本のモノづくりが窮地に立たされたのです。しかしバブル以降15年、もう一度小売店頭に客を引き戻す事が叫ばれ始め、真剣に小売店がこれに取り組み始めました。それが「SHOPブランド」なのですが、サブプライムローン問題は無惨にもこれを打ち砕く事になってしまいました。個客や消費者は生半可なモノには手を出さなくなってしまったのです。

一方では日本のモノづくりはコストがかさみ、地金の高騰と相まって、ルックス・フォー・バリューとしてのジュエリーの存在感が低くなってしまったのです。

ではどうしたら個客・消費者を魅了する商品を作れるかということですが

figure1.jpg

の4点を挙げたいと思います。勿論メーカーによって環境は異なるでしょうから、具体的な計画についてはここでは触れません。

gyakushu.jpg(1)モノづくりの出発点で利益を考えない事=企業は利益を追求するのが当たり前ですから、奇異に感じるかも知れませんが、ものづくりのスタートではこの発想は禁物です。どうしたら個客・消費者に感動して貰えるか。そのためにはどのようなモノづくりをしたら良いか。ジュエリーは売れるモノではなく感動させるモノという考え方が先ずは必要です。

(2)海外ブランドと競争して充分に戦えるアイデアを練る事=海外ブランドは日本の市場を良く研究しています。そしてそれぞれのターゲットに対して、的確なジュエリーを送り込んできます。日本のメーカーが体力をなくし、優秀なクラフトマンを手放したのを見逃さず、彼らをダイレクトに抱え、デザインの面、造りの面の開発をやっています。ルックス・フォー・バリューの面からみると、意外に安い印象を持つのはこのためです。日本のモノづくりが市場という概念をしっかり把握する事が出来なければ、競争力あるモノづくりは出来ないと思います。

(3)試作の段階でテストマーケティングを行う事=日本のモノづくりにとって一番遅れているのはこの点かも知れません。例えばジュエリーショーに照準を合わせて商品を企画したとした場合、恐らく殆どのモノづくりはジュエリーショー間近にならないと商品が上がってこないでしょう。企画、デザイン、製造に充分時間をかけても、出来上がったジュエリーが、販売の窓口である営業に充分消化されずに、買い手のところにいく。日本の作り手の多くが自分が作るのは絶対だと云う過信から来ているようですが、この点を改める必要があります。

premium2.jpg(4)ターゲットを絞り狙い撃ちするプロモーション戦略を実践する事=プロモーションはある程度お金がかかりますが、自分たちの出せる範囲で良いのです。それよりも売れるなら誰でも良いという安易な発想から、商品のコンセプトを平気で拡大解釈してしまうという事が問題です。自分たちが狙った獲物は必ず仕留めるという強い意志と実行がないと、消費者・個客はこちらに目を向けてくれません。

商品開発に格好の参考書を紹介します。1冊は「プレミアム戦略」で遠藤功さんという方が書いています。早稲田大学大学院商学研究科(ビジネススクール)教授。MBA/MOTプログラムディレクター。株式会社ローランド・ベルガー日本法人会長の肩書きを持っています。この人の本は大変分かり易く読み易いので結構頭に入ります。もう1冊は奥山清行さんの「伝統の逆襲」です。奥山さんは長年世界の車業界のデザイナー、ディレクターとして活躍した人で、日本のモノづくりが世界で戦うにはどうしたら良いかを、非常に良い視点で書いています。

増渕邦治(ますぶち くにはる)

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2010/9/23 木曜日

ジュエリーの歴史6000年 [第5回]古代ギリシアとトラキア

jewelryhistory5.jpgUnderstanding Jewellery
ジュエリーの歴史6000年 [第5回]

古代ギリシアとトラキア

古代ギリシア
ここでいう古代ギリシアとは暗黒時代を経てポリス国家群が成立したBC8世紀の中葉からアレクサンドロス大王がオリエントを征服し、BC323年に没するまでの約430年間を包括しています。BC12世紀末に、海の民の侵入によってミケーネ文明が滅ぶと、BC8世紀の中葉までの約400年間ギリシアの文字による記録が途絶えてしまい、この間のギリシアの歴史がよく判っていません。これをギリシアの暗黒時代と呼びます。しかし陶器などには幾何学模様が描かれるなどしていることから「幾何学文様時代」などと呼ばれることもあります。

その後8世紀の半ばになりギリシア各地にポリス[都市国家]が出現するに至って、ギリシア文化が大きく華開くことになります。そしてBC8世紀末にはギリシア西南部、クレタ島をエーゲ海の島々、アナトリア西海岸にまでポリス国家とギリシア文化の影響は広がっていたと考えられます。さらにBC6世紀頃にはスペインのバレンシア、アンダルシア、カタルーニャ、フランスのマルセイユやニース等にまで拡大し、第二の本拠と云えるイタリア南部とシチリア島などに植民都市を建設しました。ヘロドトスが書いた「歴史」はBC5世紀のアケメネス朝ペルシアと古代ギリシアの諸ポリスとの戦争[ペルシア戦争]を核としてペルシアの建国および拡大、オリエント世界各地の歴史などを纏めたものです。

ポリスは大小様々でひとつひとつは領土も小さく、市民と呼ばれる自由民男子とその家族は3〜10万人、奴隷5〜10万人の人口で構成されていました。ポリスは古代マケドニアがBC338年にカイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、全ギリシアを統一するまでそれぞれの自立を保っていました。

また古代ギリシアは2つの時代に分けられ、前半はBC750〜BC480年頃をアルカイック時代[前古典時代]、BC480〜BC323年頃をクラシック時代[古典時代]といいます。研究者によってはBC323〜BC30年までのヘレニズム時代を包括するようですが、ここではヘレニズム時代は別のくくりとして述べます。

BC750年〜BC30年頃のヨーロッパは、古代ギリシアを中心に各地で多様な文化が生まれ、また国家間の争いで目まぐるしく領土が変化します。それだけに歴史という視点で見ると実に面白く、興味深いものがあります。

古代ギリシアのジュエリーは圧倒的に金や銀製のものです。技法的にもイタリア中西部のエトルリアが得意とした粒金(グラニュレーションは古代ギリシア人の手によって作られたもので、金の表面に微細な金の粒を大量に連続してつける技術)やフィリグリー(細い金の線を金のベース部分に張り付け装飾を施したもので、これを応用して19世紀初頭の英国でオープンワークの技法で作られ、カンティーユと呼ばれた)などの技法で盛んにジュエリーが作られています。ギリシアの金の山地として特定できるのはパンガイオン金山やテッサロニキ、タソス島などです。

黒海沿岸やトラキア(現在のブルガリア)、ドナウ川の南の山岳地帯には古くから金が産出され、これと古代ギリシアのジュエリー技術が融合して、金によるジュエリーは高度な発達を遂げます。またギリシア独特の意匠(デザイン)も顕著で、小アジアのアナトリアやスキタイなどにも影響を与えました。

古代ギリシア人の造型感覚は完璧で、特に人体に対する表現は、その後のヨーロッパの総ての基本になり、古典主義やルネサンスなどはじめとする美術様式は、時代の変革期になると常に「ギリシアに帰れ」と云われ美術の模範とされてきました。

しかし民主主義国家群としてのポリスはBC5世紀前半から大帝国ペルシアとの再三に亘る戦争やBC431〜BC404のペロポネス戦争(アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、全古代ギリシア世界を巻き込んだ戦争)、レウクトラの戦い(BC371年にエパメイノンダスに率いられたテーバイを中心とするボイオティア軍が、当時ギリシア最強を謳われたスパルタを中核とするペロポネソスの同盟軍勢を破って、テーバイが古代ギリシアの覇権を握る契機となった)などを経てポリス国家群は衰退していきます。

トラキア
古代ギリシアの影響を受けながら、独特の金製品(ジュエリー)を作り出した国がトラキアです。黒海の西、ドナウ川の南、現在のブルガリアを中心とした一体は、近年黄金製品が多数発掘されています。

この地域で金を使い出した歴史は古く、黒海沿岸のヴァルナと云う墳墓から総計2000点、総重量6kgにものぼる金製品が出土し「世界最古の黄金文明」と云われています。このヴァルナ遺跡はBC5000年の頃と思われ、石器時代にはすでに金製品が造られたことになります。そしてこのことはメソポタミア・ウルの王墓から出土された王冠や装身具類と比べても1500〜2000年近く時代が遡るのです。これらの金製品の金が何処から産出されたかは特定できませんが、恐らくバルカン山脈とロドビ山脈に挟まれたスレドナ・ゴラ山地周辺のブルガリア全土ではないかといわれています。

時代は下がってBC1300〜BC1200年頃のものとされるヴァルチトラン遺跡からも、金製品が出土されているのですが、その後途絶え、トラキア文化の繁栄期であるBC5〜BC3世紀頃まで空白の時代になっています。トラキアの金製品で特徴的なのは、墳丘墓から発見されるものと集落などから発見されるものがあります。前者は王や王族の副葬品として納められているので、或る程度の来歴を知る手がかりになりますが、後者はその発見が偶然によることが多く、歴史的な来歴を掴むのは困難なことが多いようです。

トラキアの遺宝と云われる金製品が最初に発見されたのは1851年、シュリーマンがトロイヤを発掘しプリアモスの黄金(トロイヤの黄金)を発見したのが1873年ですから、それよりも20年も前の事になります。その後1920〜30年代にプロヴァディブ近郊のドヴァリン村の複数の墳丘墓からトラキア王家の豪華な金製品が発掘されます。また21世紀の大発見といわれる2004年発掘されたシプカ村にあるスヴェティツア墳丘墓からは、トラキア王の黄金のマスクが発掘されます。この黄金マスクはシュリーマンがトロイヤで発掘されたとするマスクと大変よく似ており、しかも重量が672gもある堂々たるものです。このマスクのモデルはオドリュサイ王国を築いたテレス1世である可能性が高いようです。発掘を担当したキトフ教授によれば「これはフィアラ杯に顔を近づけて、ワインを飲み干そうとする王の顔であり、実際に王がフィアラ杯からワインを飲み干そうとする姿が、他の人からは王が普通の人間から黄金の人間に変身するように映り、王の持つ能力と超自然的な神正を信じるのである」と述べている。このような想像を広げられるのも黄金の持つ魅力と云えるのかもしれません。トラキアは黒海沿岸を基地とした海外貿易により発展しますが、同時に海外からの侵入も余儀なくされ、古代ギリシアの植民都市、古代ローマの圧迫、ヴィザンティ帝国の基地など目まぐるしく歴史の波に翻弄されていきます。

写真A:
ネックレス。BC5世紀前半。球形垂飾径1.3cm。重さ91g。ブルガリア国立博物館。41個のパーツからなるネックレス。20個の球形垂飾パーツと19個の溝付きパーツそれに2個の円筒型パーツで構成されている。同じパーツを何個も作るには恐らく粘土型キャストで原型を作り、金を流し込んでいると思われるが、よく見ると細部にわたって丁寧な仕事がしてあるのがわかる。恐らく技術的にはギリシアの影響を受けている。

増渕邦治(ますぶち くにはる)
ますぶちstyle ホームページ

2010/6/29 火曜日

スリランカ宝石便り〜最終回〜

Filed under: ジュエリーコラム, スリランカからの宝石便り — ジェムランドeditor @ 13:57:04

20年以上続いたスリランカの内戦終結から1年が経過し、コロンボ市内でも観光客の姿を頻繁に見かけるようになりました。北海道くらいの大きさの島国に遺跡など多くの世界遺産があるスリランカに興味を持つ方も多いでしょう。今回は観光客がスリランカで宝石やジュエリーを買う時のポイントについてお話させてもらいます。

スリランカで代表的な宝石は「ブルー・サファイア」ですね。

スリランカ産のブルー・サファイアの青は明るいものが多いです。

せっかくスリランカに来たのだからスリランカで産出されたサファイアがほしいと思うかもしれませんが、最近はアフリカ産出のものも多く販売されています。

観光客が立ち寄るようなお店の売り子レベルでは、売っているサファイアがスリランカ産なのかマダガスカル産なのか、加熱処理されているのか無処理なのか、そんな違いは気にせず全て「スリランカで産出された天然(ナチュラル)なもの」と説明されます。

彼らは嘘を言っているわけではなく、そう信じている場合が多いので騙されたと思ってはいけません。「数億年前のアフリカとスリランカは同じ大陸でつながっていたのだから同じもの」と気にせず買うか、売り手の言葉を信じてスリランカ産と思うか。(もちろんスリランカ産である可能性もあります。)スリランカの宝石業者はサファイアの「産地」より値段と品質に関心があり、産地ごとに分けて管理することはないです。

美しいスリランカ産サファイアを「手頃な値段」で買えるというチャンスは観光客にはあまりないでしょう。売り手は観光客に良質な宝石を安く売ることはありません。安い場合は良質ではないか、合成石の可能性があります。では、それなりの値段を支払ったのだから、買った宝石が必ず良質であるか?宝石の値段は宝石のレベルにもよりますが、買い手のレベルでも決まってきます。あなたが「裕福な観光客」に見られた場合、目の前にサイズの大きなサファイアが並べられます。店によっては奥の金庫から物々しく出して、ひとつひとつ丁寧に時間をかけて見せてくれます。予算を聞かれますが、それには答えないで、色々なレベルのものを見たいと伝えれば良いでしょう。非加熱か加熱なのか、大きさ、色合いで値段は随分変わってきます。ここから値引き交渉の始まりです。もともと値切られるのを想定して高い値段を言っているので、思いっきり値切っても大丈夫です。相手の値段よりより3分の1か半分くらいから始めてみてください。こちらが値切らなくても、「あなたは友達だから」と最初に提示した値段より勝手に安くしてくれようとする売り手もいます。しかし、会って数分しかたたない人が本当の友達であるわけではないので、それでも値段が高いです。その場合はこちらも「友達」をアピールしてさらに値切って下さい。

値切っても本当に良質なもの、希少性の高いものは値段が思ったほど下がりません。

宝石は一期一会のように、そのひとつが出会いです。日本には入ってこないような色合いのサファイア(一般的には品質が悪いとされる)も売られていますので、色が気に入ればそれを購入されても良いでしょう。お店は薄暗く強いライトを使う場合も多いので、できれば窓際の自然光下の色も確認してください。

スリランカは宝石の産地だからどんな宝石でもあると思われるかもしれませんが、オパール、エメラルドは産出されません。お店には置かれていますが品質はあまり良くないのでお薦めできません。サファイアより安く買える宝石なら、ガーネットやスピネル、クリソベリルなどが良いでしょう。同じ名前の宝石でも色が違いますので、様々な色を並べて比べてみて下さい。

さて、購入した宝石が合成石でないか?ニセモノではないか?それをスリランカで調べるにはどうしたら良いでしょう?

スリランカの宝石関係を取りまとめているのが政府機関の[National Gems and Jwellery Authority]です。ここでは、外国人であれば鑑別を無料でしてもらえます。鑑別書の発行には料金がかかりますが、コロンボで購入した場合はお店の人にここの鑑別書をつけてもらうと良いでしょう。(ただし高価なものに限られると思います。)自分で宝石を持ち込むことも可能です。(25 Gall Face Terrace,コロンボ3/ゴールフェイスホテルの近くです。)お店の人が発行するのは、保証書であり鑑別書ではありません。

サファイアの加熱か非加熱については、FT-IR(フーリエ赤外分光分析)鑑別機器を持っている鑑別会社「Colombo Gemmological Institute(コロンボ4)」での鑑別が可能です。「非加熱サファイア」を購入される場合は、このFT-IRのデータのついた鑑別書をお店の人を通して取得してもらっても良いと思います。(ただ旅行などの限られた日数では難しいかもしれません。)

この回で「スリランカ宝石便り」を終了させて頂きます。定期的に投稿できなくてすみませんでした。この記事でスリランカの宝石に関心を持って頂ければ幸いです。福本修先生とは、私が英国宝石学協会のFGAの勉強をしている時にメールで何度も質問をさせて頂いたのが出会いです。こちらのWEBから私のブログ(スリランカ宝石留学物語)に来て下さる方もいて嬉しい限りです。本当にありがとうございます。

皆様がスリランカで素敵な宝石との出会いがありますことをお祈りしています。

スリランカ宝石留学物語 http://plaza.rakuten.co.jp/gemgasuki/
片山新子、FGA

2010/6/22 火曜日

メレバンク・カフェ(18)日本の市場は低迷、しかしダイヤモンド価格は上昇へ

Filed under: ジュエリーコラム, メレバンク・カフェ — ジェムランドeditor @ 15:47:39

日本の市場は低迷、しかしダイヤモンド価格は上昇へ

日本の宝飾業界は依然として低迷が続き、明るい兆しが見えない状況ですが、ワールドマーケットのダイヤモンド価格は確実に上がっています。

2008年9月のリーマンショックでダイヤモンドは大幅に価格を下げ、2008年末には大粒のダイヤモンドは殆ど動かない状況となりましたが、中国、インドが経済的に復活するのと歩調を合わせるように2009年夏頃からダイヤ価格は底値を脱し始めました。ダイヤモンド採掘業者の採掘停止や、デビアスがサイトの原石供給量を減らしたことも効果をあげました。

2009年の秋から少しずつ値を上げ始めた1ctアップのダイヤモンドは2010年に入ると急激に値上がりし、毎月高くなっています。0.5ctから3ctまでの価格はほぼリーマン以前のレベルに戻しました。4ctアップのダイヤは若干リーマン以前よりは安いようですが、メレーは完全にリーマン以前の価格を上回りました。

メレー(1/6ct以下のダイヤを言います。「メレー」という言葉についての詳しい考察はメレバンク・カフェ(2)をご覧ください)価格の上昇はインド国内の経済問題と深く関わっています。インドのダイヤモンド産業を支えてきたのは50万人とも60万人ともいわれる研磨工でした。景気が悪くなると研磨工はレイオフされ、農業など他の産業の労働者となり、景気が回復すると再びダイヤ研磨工として戻ってくる、というパターンが長く続き、ダイヤモンド産業成長の安全弁の役割を果たしていました。リーマンショック後、米国への輸出は数カ月ストップ、逆に既輸出分のダイヤが返品される事態となり、多くの工場は一時的に閉鎖され、2008年の末には半数以上の研磨工が職を失いました。米国から返された商品の再販売が進んだ2009年春から工場は再開を目指しましたが、予想に反して研磨工は戻って来ませんでした。インド国内の経済発展の勢いは強く、賃金も上昇して研磨工にとってダイヤ産業に戻るメリットがなくなったということでしょう。研磨工賃は2割以上上がったと言われていますが、それでも戻ってきた研磨工の数は多くはありませんでした。レイオフされた研磨工は主として-2、ブラウン、ナッツ等の安価なアイテムを研磨していましたから低価格帯のアイテムは品不足となりました。しかし、安い材料は値段が上がると別のアイテムにとって代わられるという宿命を持っていますし、原石の値上がりは研磨石よりも大きいので、研磨量はリーマン以前のレベルには及ばない状況です。メレーの価格はこれから先も少しずつ上がってゆく可能性が高そうです。

佐野 良彦

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2010/6/8 火曜日

ジュエリーの歴史6000年 [第4回]エーゲ文明とジュエリー

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ジュエリーの歴史6000年 [第4回]

エーゲ文明とジュエリー

現在エーゲ文明はクレタ文明(ミノス文明とも)、ミケーネ文明(ミュケナイ文明とも)、トロヤ文明の3つの文明の総称として用いられ、その起源は大体BC2000年頃と考えられているが、クレタ文明の前にエーゲ海のキクラデス諸島を中心にした文明がBC3000年頃に栄えたという説もある。その頃の様子はクレタ島の北に位置するサントリーニ島の壁画などからも伺えるが、これが事実とすれば、エーゲ文明はオリエントやエジプトと同じくらい古い文明で、世界各地でBC3000年くらいに、同時に複数の文明が爆発したという見方も出来よう。時代区分で云うと青銅器時代にあたる。

エーゲ文明の発祥地クレタ島のクノッソス宮殿の発見は、イギリスの考古学者アーサー・エバンスだが、それは1900年の事だった。その宮殿は1000室以上の小部屋を持ち、城壁はなく開放的な宮殿であった。自由で豊かな文化的正確を持った文明でもあった。クノソッス宮殿はしばしばギリシア神話に登場するミノス王にちなんでミノア文明とも呼ばれる。ミノア王はゼウスとエウロペの子である。エウロペはeuropeでヨーロッパの語源でもある。

ギリシア神話では有名なミノタウロス伝説がある。ミノア王が後で返すからという約束で海の神ポセイドンから美しい白い雄牛(一説では黄金の雄牛)を手に入れる。雄牛の美しさに夢中になった王はポセイドンとの約束を違えて、自分のものにしてしまうが、これに怒ったポセイドンはミノア王の妻パーシパエーに呪いをかけ、白い雄牛との間にミノタウロスを産ませる。ミノタウロスは成長するに従い乱暴になるが、ミノス王は部下のダイダロスに命じて迷宮(ラビュリントス)を建て、そこにミノタウロスを閉じ込めてしまう。そして9年毎に少年7人と少女7人をミノタウロスに生け贄として与えていたが、これに憤りを感じていたミノス王の娘アリアドネはアテネのテセウスと計り、見事ミノタウロスを打ち破るというもの。迷宮は一度入ったら出て来れないという複雑な構造を持っていたので、アリアドネは赤い糸玉をテセウスに渡し無事に迷宮を脱出する事ができた。

クレタ島の人々は民族的には地中海人種と小アジアの混血という説もあるがどうもはっきりしない。彼らは絵文字や線文字A(BC18世紀-BC15世紀頃までクレタ島で用いられたが現在未解読)と呼ばれる文字を使用し、高度な文明を築いていたことがわかっている。エーゲ海は大小様々な島で構成され、このため海上貿易が盛んであった。クノッソス宮殿などの遺跡から壮大な宮殿を営む為政者が会場貿易によって莫大な富を得ていた事は想像に難くない。
そのクレタ文明は、BC1400年頃まで栄えるが、数度に渡る火山の噴火や地震などやインド・ヨーロッパ語族の侵入などがクレタ文明に影響を与え、衰退を招いたといわれている。

また同じ頃に最初のギリシア人と云われるアカイア人がギリシア半島のミケーネ、ティリンスに南下してミケーネ文明を築く。やがてミケーネがクレタ島を征服してクレタ文明は終焉を迎える。代わってミケーネがエーゲ海を中心とした文明を築き、線文字Bを使い(現在ほとんどが解読されている)紀元前1200年頃まで栄えるのである。黒海の西側、ドナウ川とエーゲ海に挟まれた地域はバルカン半島と云われるが、この地域一帯は古くから金の産出地として知られていた。黒海の麓にあるヴァルナ遺跡(現在のブルガリア北東部、ヴァルナ市南西郊、ヴァルナ湖北岸にある金石併用時代後期(BC4500〜BC4000年)の墓地遺跡は1972年秋に偶然に発見され、81年末までに204基の墓が発掘された。大量に黄金製品(総重量6キロ)と銅器が発見されたことで知られ、メソポタミアやエジプトとほぼ同時か、あるいはむしろ古い時期に、バルカン半島にかなり高度の文化が発達していたことを示す証拠として注目されているが、ミケーネ文明もこれらの金を活用し、高度な文明を築いた。ギリシア人(アカイア人)はドナウ川流域からバルカン半島を越え、ギリシアに移動して来た事からも、金に対する知識と加工は十分に備わっていたのではないだろうか。

このミケーネと覇を競ったのが小アジアにあったトロイであるが、ミケーネはトロイを発掘したドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンによって1876年に発掘されて明らかになった。ミケーネ城内の墓から発掘された黄金のマスク(ミケーネの王アガメムノン)は金でできた葬儀用のマスクで、埋葬穴(円形墳墓群A5号墓)にあった死体の顔の上で発見された。シュリーマンはこれがアガメムノンの墓であると信じ、それ以来アガメムノンのマスクと云われているが、現在の考古学によればどうもBC1550?BC1500年のものであるらしい。このマスクは現在アテネの国立考古学博物館に展示されているが、ミケーネの竪穴墓で発見された5つのマスクのうちのひとつである。

シュリーマンはまたBC8世紀の吟遊詩人ホメロスが書いた叙事詩「イーリアス」に触発されて、トロイ戦争をトロイ郊外のヒッサリクの丘と特定し、1873年にいわゆる「プリアモスの財宝」(トロイの黄金とも云われるが、シュリーマンの妻の故郷であるギリシアに運ばれる。その後ベルリンに移動したが第2次世界大戦でロシア軍がベルリンに侵入した際に何故か忽然と消えてしまった。しかし最近、プーシキン博物館の地下倉庫に保管されている事が判明したが未だにベルリンに返還されていない)を発見し、伝説のトロイを発見したと喧伝した。

この発見により古代ギリシアの先史時代の研究は大いに進むこととなるのだが、同時に混乱を招く事になる。プリアモスとはトロイ戦争の切っ掛けになった、パリスの審判で有名なトロイ王パリスの父で同じトロイ王である。トロイ戦争はBC1150年頃と考えられているが、プリアモスの黄金が発掘されたヒッサリクの丘の地層はBC2500年頃のものであり、実際には1500年ほど古いものである事が判ってきた。

sophie.gifトロイ戦争の発端になった逸話はこうだ。エギナ島の王ペレウスが海の女神てティスとの結婚式に、エリスを招待しなかった。これに怒ったエリスは「もっとも美しいものに贈る」と書いた金の林檎を宴席に投げ込む。この結婚式にはギリシアの神々や英雄たちが列席していたが、ヘラ、アテナ、アフロディテの3人が「私が一番美しい」と言い出して収拾がつかなくなった。そこで天の支配者であるゼウスは、トロイ王のパリスに判定してもらえと言う。3人はパリスの前で、それぞれ自分を選んでくれたら約束を守るという条件を出します。ゼウスの妻で結婚の女神ヘラは「世界の支配権」を、戦いの女神アテナは「戦での勝利」を、美と愛の女神アフロディテは「美しい妻」を約束するのですが、パリスが心を動かされ金の林檎を与えたのは、美の女神アフロディテであった。何時の時代でも男は美女に弱いのだ。そしてパリスに与えられる世界一の美女は、スパルタ王メネラオスの妃ヘレネであったことから物語はややこしくなる。パリスがスパルタの王宮を訪ね、王がクレタ島出張の留守を見計らい、トロイに連れ帰ってしまった。全てアフロディテの企てである。これに怒ったのがスパルタ王メネラオスで、全ギリシアの英雄を集めトロイへの復讐の軍を起こす。これが延々と10年続くのである。ギリシア軍の総大将は、メネラオスの兄アガメムノン、ペレウスの息子アキレウス、 知恵者のオディッセウスなどそうそうたるメンバー。一方のトロイ軍はプリアモス王の長男ヘクトル・アイネイアス、美と愛の女神アフロディテ、太陽神アポロンが付いていた。しかし戦争の不条理な殺戮、略奪行為に対してオリンポスの神々は許すことはなかった。そのためトロイ、ギリシアの両軍に悲劇が次々と起きる。このたくさんの悲劇をギリシア神話は延々と語り継いでいるのだが、これを著したのがホメロスの「イーリアス」「オデュッセイア」であり、トロイ戦争は史実が神話化された物語であったことを証明したのがシュリーマンである。

mask.jpgトロイ戦争はミケーネが勝利するが、ミケーネはギリシアの別の民族であるドーリア人によって滅ぼされる。また一説には海の民のよって滅亡されたとも云われるが、この海の民がどのような民族であったのか実はよく判っていない。ミケーネの滅亡後ギリシア半島ではBC900年頃まで文字による記録が残っておらず、暗黒の時代などと呼ばれている。

エーゲ文明が発達したのは、豊富な金の産出によるものではないか。というのはギリシアの東タソス島やテッサロニキ周辺、ドナウ川の南トラキア地方(現ブルガリア)、バルカン山脈、ロドビ山脈周辺は古代から金を産出した。またトロイの南からも金が産出している。ギリシア半島はこうした金に恵まれて、小アジアや黒海周辺に多くの植民都市を形成して栄えた。

シュリーマンが発掘したプリアモス財宝の一部を着用した妻のソフィア・シュリーマン(写真、右上段)。これだけ見てもトロイの財宝がいかに凄いかが想像できよう。

granuration.gif写真左:アガメムノンの仮面。ギリシア神話でもっとも有名な一人で、ミケーネの王としてトロヤ戦争の総指揮官であった。ただ彼が実在の人物であったか神話の人物かははっきりしない。発見したのはシュリーマンで、埋葬穴(円形墓群A5号)にあった死体の顔の上にあった。シュリーマンはこれをアガメムノンの墓であると信じ、それ以来アガメムノンの仮面として一般的である。しかしながら考古学上では、この仮面はBC1550?BC1500年頃のものとされ、アガメムノンの時代よりも早いとされている。またこの仮面はミケーネの竪穴墓の中で発見された5つの仮面のうちのひとつであり、アガメムノンの仮面の信憑性が疑問視されている。アテネ国立考古学博物館所蔵。

写真右下:2匹の蜂(スズメバチまたはミツバチ)。クレタ島クリソラッコスの墓地で出土、粒金の作例(中央の丸い部分)としてはもっとも古い。BC1800?BC1600年頃。ヘラクリオン美術館所蔵。ペンダント。ギリシア人はエーゲ文明の頃から金銀細工師として活躍やがてBC800年頃の古代ギリシアの時代、金工技術はアナトリア半島(小アジア)やメソポタミア、スキタイやトラキアなどの植民都市へ伝わっていく。

増渕邦治(ますぶち くにはる)

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2010/3/26 金曜日

ジュエリーの歴史6000年 [第3回]

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ジュエリーの歴史6000年 [第3回]

古代文明はエジプトやメソポタミアを中心としたオリエント圏で高度に発展しました。世界の各地で文明が発生すると、都市が建設され階級が生まれ、そこで生活する人々を統率する人(王)があらわれます。王は民衆と区別を付ける為に、特別なものを身につけることによって力を示すようになります。この特別なもののひとつにGOLD(金)がありました。

金は地球が生まれた時から元素として存在していました。その元素が地殻変動によって地表地殻に持ち上げられ、世界のあらゆる場所で鉱石に含まれ、或は砂金となって私たちの前に登場してきました。

人類がはじめて金と遭遇したのは、川の中でキラリと光る砂金を発見したときではないでしょうか。それは何よりにも増して煌めき、神々しくあったのです。

金の特性は空気中で酸化せず、他の金属と化合せず、展延性があり、減りません。このような特性は他の金属や宝石ではあり得ず、だからこそ古代に於いて金を征するものは世界を征服したことは歴史が証明しています。

銅を使い出したのはメソポタミアのシュメール文明の方が古いのですが、金を用いたのはエジプトの方が古く初期王朝のナルメルの時には既に、何らかの金の細工品がつくられています。エジプトでは古くからナイル川上流とアスワンの南からスーダンにかけたヌビア地方、第5急端の東側のプント(正確な位置は現代でも特定できていない)などが金を産出することで知られていました。

エジプトの金を語るとき、ヌビア地方を抜きにすることはできません。代々のファラオはたびたびヌビアに遠征を送り、金の管理と調達にエネルギーを費やしました。18王朝のハトシェプストは、アモン神の神託によりヌビア、プントそしてシナイ半島まで遠征隊を送っています。

3tc.jpgまたエジプトの歴史の中で、テーベに都をおき25王朝を築いたピアンキはヌビア人による王朝で、アッシリアに征服されるまで約80年ほど続きました。紀元前750年頃の事です。古代エジプトの歴史の中で肌が黒い種族が王朝を築いたのはヌビア人だけですが、この頃になると金の産出量はかなり少なくなってきたようです。

古代の王たちは死ぬと必ず蘇ると信じ、自分の王墓に夥しい量の宝飾工芸品を運び封印しますが、墓泥棒たちによって盗み出され、特に金製品は鋳潰されてしまいます。

現在残されているもので最高傑作とされるもののひとつに、古代エジプト第18王朝のファラオ、ツタンカーメン王(在位:1333-1324年頃/より厳密な表記ではトゥトアンクアメン[Tut-ankh-amen]という)の黄金のマスクがありますが、このマスクを超えるものは新王国時代には沢山作られたことでしょう。

マスクに用いられた金は10kg、またツタンカーメンのミイラが収められていた棺は3重になっているのですが、これに用いられた金の総量は110kgにのぼります。

ツタンカーメンから少し時代は下がりますが、第21王朝のプスセンネス1世の墓は、ツタンカーメンが一部盗掘されていたのに比べ、完全無傷で発掘されています。この墓から発掘されたプスセンネス1世の黄金のマスクは、ツタンカーメンほど豪華ではありませんが、素晴らしいものです。

18王朝から20王朝の新王国時代、そして第3中間期にかけての21王朝あたりは、エジプトの美術・工芸が最も豪華に華開いた時代でもあります。しかし現存しているものは一体幾つあるのでしょうか。金は人間によって最高のものを作ったかもしれませんが、破壊され鋳つぶされてしまっているのです。

ジュエリーの素材としては、金が中心で、銀はほとんど使われていません。古代に於いて銀は純粋な銀の形で産出される事は稀で、他の元素との化合物として見つかることの方が多かったことによりますが、エジプトでは銀は何故か産出されなかったようです。

3hayabusa.jpg宝石類についてもエメラルド、ラピスラズリ、カーネリアン、トルコ石、シリカガラス、ファイアンス(焼き物の一種で石英の粉末に油を加えて成形し、その上に釉薬をかけて焼成)など青や赤の明るい色調を好みました。古代文明の中でこれほどまでに、色彩豊かな表現をしている文明は他にありません。
クレオパトラで有名なエメラルドはシナイ半島からもたらされ、ラピスラズリやトルコ石はアフガニスタン地方から運びこまれました。

また新王国時代のツタンカーメンの胸飾りや眼に使われているシリカガラスは、エジプト南西部ギルフ・ケビールの北50キロでしか採取できないものでリビアングラスとも呼ばれます。このグラスは隕石の落下の衝撃により、地表の岩盤が一旦持ち上がってから加速度をつけて地表を押しつぶした時の圧力と超高温で岩石の一部が溶けできたものであるという説があります。

2006年吉村作治教授等が、ツタンカーメンのマスクを調査していますが、このレポートでは、シリカガラスについては全く触れられていないようです。

さらにこのレポートでは純金のマスクの表面に微細(ナノメートル単位)の金粉にニカワを混ぜて、薄い膜として表面を覆っていると記しています。金粉をつくるには、金の板をヤスリ状のものでごしごし削って粉末状にするわけですが、この時代に金をナノメートル単位の微細な金粉にすることは果たして可能なのか、疑問のあるところです。

エジプト王朝はその長い歴史の中でたびたび異民族の迫害を受けます。最初の侵入は第2中間期の15王朝を創設したセム語族のヒクソスでした。その後第3中間期の25王朝を築いたヌビア人による王朝です。

ヌビアはエジプト統一王国ができる以前から、たくさんの金をエジプトにもたらしました。エジプトは1万年以上前にスーダンやエチオピアに住んでいた民族が北上してきて建国したとも云われています。またヌビア人はエジプト王国の中で唯一黒人系の民族でもあります。

19王朝のラメセス2世は67年の在位中常時500人を越える女性を後宮囲い、100人を超える子をなし、7人の女性を妃にしたと云われていますが、その中にクレオパトラやネフェルティティと並び歴史上の美女とされているネフェルタリがいました。彼女はヌビアの王女アイーダの生まれ変わりと云われています。

ネフェルタリを祀るアブシンベル小神殿がヌビアの方角を向いているというのも頷けますし、このような伝説もヌビアが金の豊富な産出国であったが故の事かも知れません。

その後アッシリアが侵入し、紀元前525年にペルシアのカンビュセス王によって征服され、エジプトはペルシアの属州になりますが、それまでの2000年間エジプトの美術様式にほとんど変化が見られないというのも大きな特徴です。

そして私たちが通常使っているブローチを除いた装身具類はすべてこの2000年間に形成されているのです。エジプトの装身具で特徴なのは、他のオリエント諸国が殆どゴールド、或は色石を使っても単色で使っているのに比べ、実に多彩複雑に色石を組み合わせ、豪華に仕上げている事です。ここまで色彩豊かな装身具は現代に通じるものがあり、私たちが大いに参考にする必要がありそうです。

やがて紀元前332年、マケドニアのアレクサンドロス大王が、エジプトを支配していたアケメネス朝ペルシアを撃破し、新しい首都アレクサンドリアを創設します。プトレマイオス朝はマケドニアの王アレクサンドロスが建設した王朝で、ギリシアのヘレニズム文化の影響を受けながらエジプト文化を継承します。

しかしアレクサンドロス大王は323年急死し、その後をプトレマイオス1世が引き継ぎます。プトレマイオス朝に使われた金はナイル上流のビシャリー金山から産出される金でした。ナビアの金は新王国時代を過ぎると産出量が少なくなりましたが、ビシャリー金山は健在でした。この金山はローマ時代まで続きます。

プトレマイオス朝のクレオパトラ7世の時に、ローマ軍によって滅ぼされてしまいます。紀元前30年の時です。その後西暦642年アラブ人の将軍アムルによってエジプトが侵略されるまで、ローマ帝国の支配下にありました。以後エジプトは現在に至るまでイスラム教圏としての歴史を歩んでいくのです。

増渕邦治(ますぶち くにはる)

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