ジュエリーブログ,ニュース / ジェムランド

2012/8/14 火曜日

エージークラブ定例会[西洋美術史講座]で開催

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ジュエリーの研究グループ、AZClub(エージークラブ)が第23回定例会を開催する。

タイトルは当初予定を変更し『西洋美術史講座』。以下、主催者の発表から抜粋。

第23回定例会は、予定を変更して『西洋美術史講座』というタイトルで行ないます。ヨーロッパのジュエリーを研究する場合、西洋美術史の流れをある程度頭に入れておいた方が理解が深まる傾向にあります。しかしながら、私たちが中学校や一部高校で学ぶ西洋美術史は、あまり体系的ではないので、西洋美術史に興味がないと殆ど理解できていないようです。今回は近世及び近代にファーカスして絵画のお話を伺います。

AZClubでは、今後もジュエリーの歴史を様々な角度から捉えて研究していきますが、この際西洋美術史をしっかりおさらいしておくと、ジュエリーの歴史をさらに理解し易くなるでしょう。

今回の講師は、獨協大学の外国語学科を卒業後、イギリス、ロンドンのクリスティーズ・エデュケーションで西洋美術と装飾美術史を学び、オークションハウスでインターンシップを経験、現在独自の視点で西洋美術史を研究している方です。2年前に東京ダイヤモンドエックスチェンジクラブ(TDE)の昼食会で講演されました。アマチュアながらジュエリーやダイヤモンドにも造詣が深く、きっと皆様の参考になるお話をして頂けると思っております。ご期待下さい。

なお登録会員のご参加は優先させて頂きますが、mixiコミュニティ、amebaぐるっぽ、facebookのAZClub/エージークラブからもお申込頂けますので、お早めに。定員になり次第締切らせて頂きます。

初めての方のお申し込みはhttp://www.japan-premium.jpのコンタクトフォームよりお申し込み下さい。

・タイトル:西洋美術史講座
・日時:2012年9月22日(土)17:00〜20:00
(集合17:00・レクチャー17:30〜18:30・名刺交換会18:30〜19:00・懇親会19:00より[場所未定])
・場 所:東京駅八重洲北口cafeルノアール会議室
http://standard.navitime.biz/renoir/Spot.act?dnvSpt=S0107.2089
・定員:25名(登録会員は優先予約させて頂きます)
・参加費:登録会員2500円、ビギナー3500円
・パネラー:西洋美術史研究家 小林明日香

2010/9/23 木曜日

ジュエリーの歴史6000年 [第5回]古代ギリシアとトラキア

jewelryhistory5.jpgUnderstanding Jewellery
ジュエリーの歴史6000年 [第5回]

古代ギリシアとトラキア

古代ギリシア
ここでいう古代ギリシアとは暗黒時代を経てポリス国家群が成立したBC8世紀の中葉からアレクサンドロス大王がオリエントを征服し、BC323年に没するまでの約430年間を包括しています。BC12世紀末に、海の民の侵入によってミケーネ文明が滅ぶと、BC8世紀の中葉までの約400年間ギリシアの文字による記録が途絶えてしまい、この間のギリシアの歴史がよく判っていません。これをギリシアの暗黒時代と呼びます。しかし陶器などには幾何学模様が描かれるなどしていることから「幾何学文様時代」などと呼ばれることもあります。

その後8世紀の半ばになりギリシア各地にポリス[都市国家]が出現するに至って、ギリシア文化が大きく華開くことになります。そしてBC8世紀末にはギリシア西南部、クレタ島をエーゲ海の島々、アナトリア西海岸にまでポリス国家とギリシア文化の影響は広がっていたと考えられます。さらにBC6世紀頃にはスペインのバレンシア、アンダルシア、カタルーニャ、フランスのマルセイユやニース等にまで拡大し、第二の本拠と云えるイタリア南部とシチリア島などに植民都市を建設しました。ヘロドトスが書いた「歴史」はBC5世紀のアケメネス朝ペルシアと古代ギリシアの諸ポリスとの戦争[ペルシア戦争]を核としてペルシアの建国および拡大、オリエント世界各地の歴史などを纏めたものです。

ポリスは大小様々でひとつひとつは領土も小さく、市民と呼ばれる自由民男子とその家族は3〜10万人、奴隷5〜10万人の人口で構成されていました。ポリスは古代マケドニアがBC338年にカイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、全ギリシアを統一するまでそれぞれの自立を保っていました。

また古代ギリシアは2つの時代に分けられ、前半はBC750〜BC480年頃をアルカイック時代[前古典時代]、BC480〜BC323年頃をクラシック時代[古典時代]といいます。研究者によってはBC323〜BC30年までのヘレニズム時代を包括するようですが、ここではヘレニズム時代は別のくくりとして述べます。

BC750年〜BC30年頃のヨーロッパは、古代ギリシアを中心に各地で多様な文化が生まれ、また国家間の争いで目まぐるしく領土が変化します。それだけに歴史という視点で見ると実に面白く、興味深いものがあります。

古代ギリシアのジュエリーは圧倒的に金や銀製のものです。技法的にもイタリア中西部のエトルリアが得意とした粒金(グラニュレーションは古代ギリシア人の手によって作られたもので、金の表面に微細な金の粒を大量に連続してつける技術)やフィリグリー(細い金の線を金のベース部分に張り付け装飾を施したもので、これを応用して19世紀初頭の英国でオープンワークの技法で作られ、カンティーユと呼ばれた)などの技法で盛んにジュエリーが作られています。ギリシアの金の山地として特定できるのはパンガイオン金山やテッサロニキ、タソス島などです。

黒海沿岸やトラキア(現在のブルガリア)、ドナウ川の南の山岳地帯には古くから金が産出され、これと古代ギリシアのジュエリー技術が融合して、金によるジュエリーは高度な発達を遂げます。またギリシア独特の意匠(デザイン)も顕著で、小アジアのアナトリアやスキタイなどにも影響を与えました。

古代ギリシア人の造型感覚は完璧で、特に人体に対する表現は、その後のヨーロッパの総ての基本になり、古典主義やルネサンスなどはじめとする美術様式は、時代の変革期になると常に「ギリシアに帰れ」と云われ美術の模範とされてきました。

しかし民主主義国家群としてのポリスはBC5世紀前半から大帝国ペルシアとの再三に亘る戦争やBC431〜BC404のペロポネス戦争(アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、全古代ギリシア世界を巻き込んだ戦争)、レウクトラの戦い(BC371年にエパメイノンダスに率いられたテーバイを中心とするボイオティア軍が、当時ギリシア最強を謳われたスパルタを中核とするペロポネソスの同盟軍勢を破って、テーバイが古代ギリシアの覇権を握る契機となった)などを経てポリス国家群は衰退していきます。

トラキア
古代ギリシアの影響を受けながら、独特の金製品(ジュエリー)を作り出した国がトラキアです。黒海の西、ドナウ川の南、現在のブルガリアを中心とした一体は、近年黄金製品が多数発掘されています。

この地域で金を使い出した歴史は古く、黒海沿岸のヴァルナと云う墳墓から総計2000点、総重量6kgにものぼる金製品が出土し「世界最古の黄金文明」と云われています。このヴァルナ遺跡はBC5000年の頃と思われ、石器時代にはすでに金製品が造られたことになります。そしてこのことはメソポタミア・ウルの王墓から出土された王冠や装身具類と比べても1500〜2000年近く時代が遡るのです。これらの金製品の金が何処から産出されたかは特定できませんが、恐らくバルカン山脈とロドビ山脈に挟まれたスレドナ・ゴラ山地周辺のブルガリア全土ではないかといわれています。

時代は下がってBC1300〜BC1200年頃のものとされるヴァルチトラン遺跡からも、金製品が出土されているのですが、その後途絶え、トラキア文化の繁栄期であるBC5〜BC3世紀頃まで空白の時代になっています。トラキアの金製品で特徴的なのは、墳丘墓から発見されるものと集落などから発見されるものがあります。前者は王や王族の副葬品として納められているので、或る程度の来歴を知る手がかりになりますが、後者はその発見が偶然によることが多く、歴史的な来歴を掴むのは困難なことが多いようです。

トラキアの遺宝と云われる金製品が最初に発見されたのは1851年、シュリーマンがトロイヤを発掘しプリアモスの黄金(トロイヤの黄金)を発見したのが1873年ですから、それよりも20年も前の事になります。その後1920〜30年代にプロヴァディブ近郊のドヴァリン村の複数の墳丘墓からトラキア王家の豪華な金製品が発掘されます。また21世紀の大発見といわれる2004年発掘されたシプカ村にあるスヴェティツア墳丘墓からは、トラキア王の黄金のマスクが発掘されます。この黄金マスクはシュリーマンがトロイヤで発掘されたとするマスクと大変よく似ており、しかも重量が672gもある堂々たるものです。このマスクのモデルはオドリュサイ王国を築いたテレス1世である可能性が高いようです。発掘を担当したキトフ教授によれば「これはフィアラ杯に顔を近づけて、ワインを飲み干そうとする王の顔であり、実際に王がフィアラ杯からワインを飲み干そうとする姿が、他の人からは王が普通の人間から黄金の人間に変身するように映り、王の持つ能力と超自然的な神正を信じるのである」と述べている。このような想像を広げられるのも黄金の持つ魅力と云えるのかもしれません。トラキアは黒海沿岸を基地とした海外貿易により発展しますが、同時に海外からの侵入も余儀なくされ、古代ギリシアの植民都市、古代ローマの圧迫、ヴィザンティ帝国の基地など目まぐるしく歴史の波に翻弄されていきます。

写真A:
ネックレス。BC5世紀前半。球形垂飾径1.3cm。重さ91g。ブルガリア国立博物館。41個のパーツからなるネックレス。20個の球形垂飾パーツと19個の溝付きパーツそれに2個の円筒型パーツで構成されている。同じパーツを何個も作るには恐らく粘土型キャストで原型を作り、金を流し込んでいると思われるが、よく見ると細部にわたって丁寧な仕事がしてあるのがわかる。恐らく技術的にはギリシアの影響を受けている。

増渕邦治(ますぶち くにはる)
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2010/6/8 火曜日

ジュエリーの歴史6000年 [第4回]エーゲ文明とジュエリー

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ジュエリーの歴史6000年 [第4回]

エーゲ文明とジュエリー

現在エーゲ文明はクレタ文明(ミノス文明とも)、ミケーネ文明(ミュケナイ文明とも)、トロヤ文明の3つの文明の総称として用いられ、その起源は大体BC2000年頃と考えられているが、クレタ文明の前にエーゲ海のキクラデス諸島を中心にした文明がBC3000年頃に栄えたという説もある。その頃の様子はクレタ島の北に位置するサントリーニ島の壁画などからも伺えるが、これが事実とすれば、エーゲ文明はオリエントやエジプトと同じくらい古い文明で、世界各地でBC3000年くらいに、同時に複数の文明が爆発したという見方も出来よう。時代区分で云うと青銅器時代にあたる。

エーゲ文明の発祥地クレタ島のクノッソス宮殿の発見は、イギリスの考古学者アーサー・エバンスだが、それは1900年の事だった。その宮殿は1000室以上の小部屋を持ち、城壁はなく開放的な宮殿であった。自由で豊かな文化的正確を持った文明でもあった。クノソッス宮殿はしばしばギリシア神話に登場するミノス王にちなんでミノア文明とも呼ばれる。ミノア王はゼウスとエウロペの子である。エウロペはeuropeでヨーロッパの語源でもある。

ギリシア神話では有名なミノタウロス伝説がある。ミノア王が後で返すからという約束で海の神ポセイドンから美しい白い雄牛(一説では黄金の雄牛)を手に入れる。雄牛の美しさに夢中になった王はポセイドンとの約束を違えて、自分のものにしてしまうが、これに怒ったポセイドンはミノア王の妻パーシパエーに呪いをかけ、白い雄牛との間にミノタウロスを産ませる。ミノタウロスは成長するに従い乱暴になるが、ミノス王は部下のダイダロスに命じて迷宮(ラビュリントス)を建て、そこにミノタウロスを閉じ込めてしまう。そして9年毎に少年7人と少女7人をミノタウロスに生け贄として与えていたが、これに憤りを感じていたミノス王の娘アリアドネはアテネのテセウスと計り、見事ミノタウロスを打ち破るというもの。迷宮は一度入ったら出て来れないという複雑な構造を持っていたので、アリアドネは赤い糸玉をテセウスに渡し無事に迷宮を脱出する事ができた。

クレタ島の人々は民族的には地中海人種と小アジアの混血という説もあるがどうもはっきりしない。彼らは絵文字や線文字A(BC18世紀-BC15世紀頃までクレタ島で用いられたが現在未解読)と呼ばれる文字を使用し、高度な文明を築いていたことがわかっている。エーゲ海は大小様々な島で構成され、このため海上貿易が盛んであった。クノッソス宮殿などの遺跡から壮大な宮殿を営む為政者が会場貿易によって莫大な富を得ていた事は想像に難くない。
そのクレタ文明は、BC1400年頃まで栄えるが、数度に渡る火山の噴火や地震などやインド・ヨーロッパ語族の侵入などがクレタ文明に影響を与え、衰退を招いたといわれている。

また同じ頃に最初のギリシア人と云われるアカイア人がギリシア半島のミケーネ、ティリンスに南下してミケーネ文明を築く。やがてミケーネがクレタ島を征服してクレタ文明は終焉を迎える。代わってミケーネがエーゲ海を中心とした文明を築き、線文字Bを使い(現在ほとんどが解読されている)紀元前1200年頃まで栄えるのである。黒海の西側、ドナウ川とエーゲ海に挟まれた地域はバルカン半島と云われるが、この地域一帯は古くから金の産出地として知られていた。黒海の麓にあるヴァルナ遺跡(現在のブルガリア北東部、ヴァルナ市南西郊、ヴァルナ湖北岸にある金石併用時代後期(BC4500〜BC4000年)の墓地遺跡は1972年秋に偶然に発見され、81年末までに204基の墓が発掘された。大量に黄金製品(総重量6キロ)と銅器が発見されたことで知られ、メソポタミアやエジプトとほぼ同時か、あるいはむしろ古い時期に、バルカン半島にかなり高度の文化が発達していたことを示す証拠として注目されているが、ミケーネ文明もこれらの金を活用し、高度な文明を築いた。ギリシア人(アカイア人)はドナウ川流域からバルカン半島を越え、ギリシアに移動して来た事からも、金に対する知識と加工は十分に備わっていたのではないだろうか。

このミケーネと覇を競ったのが小アジアにあったトロイであるが、ミケーネはトロイを発掘したドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンによって1876年に発掘されて明らかになった。ミケーネ城内の墓から発掘された黄金のマスク(ミケーネの王アガメムノン)は金でできた葬儀用のマスクで、埋葬穴(円形墳墓群A5号墓)にあった死体の顔の上で発見された。シュリーマンはこれがアガメムノンの墓であると信じ、それ以来アガメムノンのマスクと云われているが、現在の考古学によればどうもBC1550?BC1500年のものであるらしい。このマスクは現在アテネの国立考古学博物館に展示されているが、ミケーネの竪穴墓で発見された5つのマスクのうちのひとつである。

シュリーマンはまたBC8世紀の吟遊詩人ホメロスが書いた叙事詩「イーリアス」に触発されて、トロイ戦争をトロイ郊外のヒッサリクの丘と特定し、1873年にいわゆる「プリアモスの財宝」(トロイの黄金とも云われるが、シュリーマンの妻の故郷であるギリシアに運ばれる。その後ベルリンに移動したが第2次世界大戦でロシア軍がベルリンに侵入した際に何故か忽然と消えてしまった。しかし最近、プーシキン博物館の地下倉庫に保管されている事が判明したが未だにベルリンに返還されていない)を発見し、伝説のトロイを発見したと喧伝した。

この発見により古代ギリシアの先史時代の研究は大いに進むこととなるのだが、同時に混乱を招く事になる。プリアモスとはトロイ戦争の切っ掛けになった、パリスの審判で有名なトロイ王パリスの父で同じトロイ王である。トロイ戦争はBC1150年頃と考えられているが、プリアモスの黄金が発掘されたヒッサリクの丘の地層はBC2500年頃のものであり、実際には1500年ほど古いものである事が判ってきた。

sophie.gifトロイ戦争の発端になった逸話はこうだ。エギナ島の王ペレウスが海の女神てティスとの結婚式に、エリスを招待しなかった。これに怒ったエリスは「もっとも美しいものに贈る」と書いた金の林檎を宴席に投げ込む。この結婚式にはギリシアの神々や英雄たちが列席していたが、ヘラ、アテナ、アフロディテの3人が「私が一番美しい」と言い出して収拾がつかなくなった。そこで天の支配者であるゼウスは、トロイ王のパリスに判定してもらえと言う。3人はパリスの前で、それぞれ自分を選んでくれたら約束を守るという条件を出します。ゼウスの妻で結婚の女神ヘラは「世界の支配権」を、戦いの女神アテナは「戦での勝利」を、美と愛の女神アフロディテは「美しい妻」を約束するのですが、パリスが心を動かされ金の林檎を与えたのは、美の女神アフロディテであった。何時の時代でも男は美女に弱いのだ。そしてパリスに与えられる世界一の美女は、スパルタ王メネラオスの妃ヘレネであったことから物語はややこしくなる。パリスがスパルタの王宮を訪ね、王がクレタ島出張の留守を見計らい、トロイに連れ帰ってしまった。全てアフロディテの企てである。これに怒ったのがスパルタ王メネラオスで、全ギリシアの英雄を集めトロイへの復讐の軍を起こす。これが延々と10年続くのである。ギリシア軍の総大将は、メネラオスの兄アガメムノン、ペレウスの息子アキレウス、 知恵者のオディッセウスなどそうそうたるメンバー。一方のトロイ軍はプリアモス王の長男ヘクトル・アイネイアス、美と愛の女神アフロディテ、太陽神アポロンが付いていた。しかし戦争の不条理な殺戮、略奪行為に対してオリンポスの神々は許すことはなかった。そのためトロイ、ギリシアの両軍に悲劇が次々と起きる。このたくさんの悲劇をギリシア神話は延々と語り継いでいるのだが、これを著したのがホメロスの「イーリアス」「オデュッセイア」であり、トロイ戦争は史実が神話化された物語であったことを証明したのがシュリーマンである。

mask.jpgトロイ戦争はミケーネが勝利するが、ミケーネはギリシアの別の民族であるドーリア人によって滅ぼされる。また一説には海の民のよって滅亡されたとも云われるが、この海の民がどのような民族であったのか実はよく判っていない。ミケーネの滅亡後ギリシア半島ではBC900年頃まで文字による記録が残っておらず、暗黒の時代などと呼ばれている。

エーゲ文明が発達したのは、豊富な金の産出によるものではないか。というのはギリシアの東タソス島やテッサロニキ周辺、ドナウ川の南トラキア地方(現ブルガリア)、バルカン山脈、ロドビ山脈周辺は古代から金を産出した。またトロイの南からも金が産出している。ギリシア半島はこうした金に恵まれて、小アジアや黒海周辺に多くの植民都市を形成して栄えた。

シュリーマンが発掘したプリアモス財宝の一部を着用した妻のソフィア・シュリーマン(写真、右上段)。これだけ見てもトロイの財宝がいかに凄いかが想像できよう。

granuration.gif写真左:アガメムノンの仮面。ギリシア神話でもっとも有名な一人で、ミケーネの王としてトロヤ戦争の総指揮官であった。ただ彼が実在の人物であったか神話の人物かははっきりしない。発見したのはシュリーマンで、埋葬穴(円形墓群A5号)にあった死体の顔の上にあった。シュリーマンはこれをアガメムノンの墓であると信じ、それ以来アガメムノンの仮面として一般的である。しかしながら考古学上では、この仮面はBC1550?BC1500年頃のものとされ、アガメムノンの時代よりも早いとされている。またこの仮面はミケーネの竪穴墓の中で発見された5つの仮面のうちのひとつであり、アガメムノンの仮面の信憑性が疑問視されている。アテネ国立考古学博物館所蔵。

写真右下:2匹の蜂(スズメバチまたはミツバチ)。クレタ島クリソラッコスの墓地で出土、粒金の作例(中央の丸い部分)としてはもっとも古い。BC1800?BC1600年頃。ヘラクリオン美術館所蔵。ペンダント。ギリシア人はエーゲ文明の頃から金銀細工師として活躍やがてBC800年頃の古代ギリシアの時代、金工技術はアナトリア半島(小アジア)やメソポタミア、スキタイやトラキアなどの植民都市へ伝わっていく。

増渕邦治(ますぶち くにはる)

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2010/3/26 金曜日

ジュエリーの歴史6000年 [第3回]

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ジュエリーの歴史6000年 [第3回]

古代文明はエジプトやメソポタミアを中心としたオリエント圏で高度に発展しました。世界の各地で文明が発生すると、都市が建設され階級が生まれ、そこで生活する人々を統率する人(王)があらわれます。王は民衆と区別を付ける為に、特別なものを身につけることによって力を示すようになります。この特別なもののひとつにGOLD(金)がありました。

金は地球が生まれた時から元素として存在していました。その元素が地殻変動によって地表地殻に持ち上げられ、世界のあらゆる場所で鉱石に含まれ、或は砂金となって私たちの前に登場してきました。

人類がはじめて金と遭遇したのは、川の中でキラリと光る砂金を発見したときではないでしょうか。それは何よりにも増して煌めき、神々しくあったのです。

金の特性は空気中で酸化せず、他の金属と化合せず、展延性があり、減りません。このような特性は他の金属や宝石ではあり得ず、だからこそ古代に於いて金を征するものは世界を征服したことは歴史が証明しています。

銅を使い出したのはメソポタミアのシュメール文明の方が古いのですが、金を用いたのはエジプトの方が古く初期王朝のナルメルの時には既に、何らかの金の細工品がつくられています。エジプトでは古くからナイル川上流とアスワンの南からスーダンにかけたヌビア地方、第5急端の東側のプント(正確な位置は現代でも特定できていない)などが金を産出することで知られていました。

エジプトの金を語るとき、ヌビア地方を抜きにすることはできません。代々のファラオはたびたびヌビアに遠征を送り、金の管理と調達にエネルギーを費やしました。18王朝のハトシェプストは、アモン神の神託によりヌビア、プントそしてシナイ半島まで遠征隊を送っています。

3tc.jpgまたエジプトの歴史の中で、テーベに都をおき25王朝を築いたピアンキはヌビア人による王朝で、アッシリアに征服されるまで約80年ほど続きました。紀元前750年頃の事です。古代エジプトの歴史の中で肌が黒い種族が王朝を築いたのはヌビア人だけですが、この頃になると金の産出量はかなり少なくなってきたようです。

古代の王たちは死ぬと必ず蘇ると信じ、自分の王墓に夥しい量の宝飾工芸品を運び封印しますが、墓泥棒たちによって盗み出され、特に金製品は鋳潰されてしまいます。

現在残されているもので最高傑作とされるもののひとつに、古代エジプト第18王朝のファラオ、ツタンカーメン王(在位:1333-1324年頃/より厳密な表記ではトゥトアンクアメン[Tut-ankh-amen]という)の黄金のマスクがありますが、このマスクを超えるものは新王国時代には沢山作られたことでしょう。

マスクに用いられた金は10kg、またツタンカーメンのミイラが収められていた棺は3重になっているのですが、これに用いられた金の総量は110kgにのぼります。

ツタンカーメンから少し時代は下がりますが、第21王朝のプスセンネス1世の墓は、ツタンカーメンが一部盗掘されていたのに比べ、完全無傷で発掘されています。この墓から発掘されたプスセンネス1世の黄金のマスクは、ツタンカーメンほど豪華ではありませんが、素晴らしいものです。

18王朝から20王朝の新王国時代、そして第3中間期にかけての21王朝あたりは、エジプトの美術・工芸が最も豪華に華開いた時代でもあります。しかし現存しているものは一体幾つあるのでしょうか。金は人間によって最高のものを作ったかもしれませんが、破壊され鋳つぶされてしまっているのです。

ジュエリーの素材としては、金が中心で、銀はほとんど使われていません。古代に於いて銀は純粋な銀の形で産出される事は稀で、他の元素との化合物として見つかることの方が多かったことによりますが、エジプトでは銀は何故か産出されなかったようです。

3hayabusa.jpg宝石類についてもエメラルド、ラピスラズリ、カーネリアン、トルコ石、シリカガラス、ファイアンス(焼き物の一種で石英の粉末に油を加えて成形し、その上に釉薬をかけて焼成)など青や赤の明るい色調を好みました。古代文明の中でこれほどまでに、色彩豊かな表現をしている文明は他にありません。
クレオパトラで有名なエメラルドはシナイ半島からもたらされ、ラピスラズリやトルコ石はアフガニスタン地方から運びこまれました。

また新王国時代のツタンカーメンの胸飾りや眼に使われているシリカガラスは、エジプト南西部ギルフ・ケビールの北50キロでしか採取できないものでリビアングラスとも呼ばれます。このグラスは隕石の落下の衝撃により、地表の岩盤が一旦持ち上がってから加速度をつけて地表を押しつぶした時の圧力と超高温で岩石の一部が溶けできたものであるという説があります。

2006年吉村作治教授等が、ツタンカーメンのマスクを調査していますが、このレポートでは、シリカガラスについては全く触れられていないようです。

さらにこのレポートでは純金のマスクの表面に微細(ナノメートル単位)の金粉にニカワを混ぜて、薄い膜として表面を覆っていると記しています。金粉をつくるには、金の板をヤスリ状のものでごしごし削って粉末状にするわけですが、この時代に金をナノメートル単位の微細な金粉にすることは果たして可能なのか、疑問のあるところです。

エジプト王朝はその長い歴史の中でたびたび異民族の迫害を受けます。最初の侵入は第2中間期の15王朝を創設したセム語族のヒクソスでした。その後第3中間期の25王朝を築いたヌビア人による王朝です。

ヌビアはエジプト統一王国ができる以前から、たくさんの金をエジプトにもたらしました。エジプトは1万年以上前にスーダンやエチオピアに住んでいた民族が北上してきて建国したとも云われています。またヌビア人はエジプト王国の中で唯一黒人系の民族でもあります。

19王朝のラメセス2世は67年の在位中常時500人を越える女性を後宮囲い、100人を超える子をなし、7人の女性を妃にしたと云われていますが、その中にクレオパトラやネフェルティティと並び歴史上の美女とされているネフェルタリがいました。彼女はヌビアの王女アイーダの生まれ変わりと云われています。

ネフェルタリを祀るアブシンベル小神殿がヌビアの方角を向いているというのも頷けますし、このような伝説もヌビアが金の豊富な産出国であったが故の事かも知れません。

その後アッシリアが侵入し、紀元前525年にペルシアのカンビュセス王によって征服され、エジプトはペルシアの属州になりますが、それまでの2000年間エジプトの美術様式にほとんど変化が見られないというのも大きな特徴です。

そして私たちが通常使っているブローチを除いた装身具類はすべてこの2000年間に形成されているのです。エジプトの装身具で特徴なのは、他のオリエント諸国が殆どゴールド、或は色石を使っても単色で使っているのに比べ、実に多彩複雑に色石を組み合わせ、豪華に仕上げている事です。ここまで色彩豊かな装身具は現代に通じるものがあり、私たちが大いに参考にする必要がありそうです。

やがて紀元前332年、マケドニアのアレクサンドロス大王が、エジプトを支配していたアケメネス朝ペルシアを撃破し、新しい首都アレクサンドリアを創設します。プトレマイオス朝はマケドニアの王アレクサンドロスが建設した王朝で、ギリシアのヘレニズム文化の影響を受けながらエジプト文化を継承します。

しかしアレクサンドロス大王は323年急死し、その後をプトレマイオス1世が引き継ぎます。プトレマイオス朝に使われた金はナイル上流のビシャリー金山から産出される金でした。ナビアの金は新王国時代を過ぎると産出量が少なくなりましたが、ビシャリー金山は健在でした。この金山はローマ時代まで続きます。

プトレマイオス朝のクレオパトラ7世の時に、ローマ軍によって滅ぼされてしまいます。紀元前30年の時です。その後西暦642年アラブ人の将軍アムルによってエジプトが侵略されるまで、ローマ帝国の支配下にありました。以後エジプトは現在に至るまでイスラム教圏としての歴史を歩んでいくのです。

増渕邦治(ますぶち くにはる)

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2010/2/23 火曜日

ジュエリーの歴史6000年 [第2回]メソポタミア文明

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ジュエリーの歴史6000年 [第2回]

メソポタミア文明

現在古代文明と呼ばれるものにはメソポタミア文明、エジプト文明、黄河文明、インダス文明の4大文明が一般的ですが、エーゲ文明、ケルト文明、長江文明、四川文明、メソアメリカ文明、古代アンデス文明などを加える学者もいます。私は素人ですが人類の進化をみていると、地球上のあちこちで4大文明以外にも文明が発生したとみる方が妥当のような気がします。

クロマニヨン人を祖先に持つ新人は、5万年前頃にアフリカを起点として世界各地に散らばり、紀元前4000〜3000年頃に複数の地域で高度な文明を築きます。今後科学の発達と遺跡の発掘が進むと、私たちの祖先についてはもっといろいろなことが解ってくるかも知れませんが、どの文明も共通して云える事は、兎も角肥沃な土地と豊富な水を源泉として文明が生まれているということです。

またメソポタミア、エジプト、小アジア(現在のトルコ)を包括する地域をオリエントと云いますが、メソポタミア文明は現在のイラクを流れるチグリス、ユーフラテス川に挟まれた肥沃な土地に発生した世界最古の文明です。メソポタミアという名前は二つの大河にはさまれた土地を意味する古代ギリシア語からきています。この二つの河の河口付近ウルやウルクなどの都市にシュメール文明が生まれました。今から1万年前になると、この地に住む先住民たちによって、羊や山羊などの飼育が始められたようです。文明が起きるには、この農耕牧畜生活と村から都市が生まれることがとても重要です。
20100223.jpgその後この地にシュメール人がやってきます。シュメール人は紀元前2700年頃までに、麦からパンやビールを作りまた冶金青銅器を使い金、銀の細工モノなどを作っています。もともとメソポタミアでは鉱物、木材、宝石、金などは取れませんでしたから、農耕牧畜による余剰品と交換にこれらの天然資源を輸入する交易が盛んになってきます。

メソポタミは河口付近から奥に広がり、小アジアからシリア辺までの広大な地域をカバーしています。川を奥に遡るとアッカド王国、古代バビロニア王国、ミタンニ王国、ヒッタイト王国、アッシリア王国などが時代と共に乱立し、アッシリアのサルゴン2世がエジプトを含む全オリエントを統一する前8世紀まで、様々な民族国家が興亡を繰り返していきました。

古代文明の発生には、農耕牧畜と定住生活(都市化)の他に、大きな川とそれに挟まれた肥沃な三角州が必要です。インダス文明、黄河文明、エジプト文明、メソポタミア文明、みな豊かな川と肥沃な大地があったればこそです。そしてもう一つの要因は私たち人間がどんな時代でも富と権力の象徴として憧れる「金」があります。川があればそこに流れてくる砂金が目に留まらない訳がありません。人々は川の底にキラキラと輝く金に目をつけ、さまざまな加工を施し権力の象徴として、或は身を飾るものとして活用することを覚えました。

ジュエリーの歴史を紐解けば、そして古代に遡れば上るほど、眩いばかりの金の装身具や工芸品が登場してきます。しかし金は古代文明の時代から私たち人類と密接な関係にあったにも関わらず、歴史学の上ではそれほど重要視されていないのはどうした訳でしょう。青銅器時代とか鉄器時代とともに、金についても歴史学上でもっと扱い方はあるのではないでしょうか。

人類がいままでに手にした金の量は一体どのくらいあったでしょう。専門家によってまちまちですが大体13〜15万トン、オリンピックプール3杯分強といったところでしょうか。今後現在の技術や採算を考えた時に、地球でとれる埋蔵量はわずかに6、7万トンといわれています。それほど貴重な金は、何千年という悠久の時を経て私たちを魅了し続けてきたのです。

メソポタミアにおける金細工の特徴はレポゼ技法(金属の板を裏から打出す)やチェイシング技法(金属の板を鏨やポンチなどで表から線刻模様などを打ち込む)です。写真はウルから出土された金の兜です。現在イラク博物館に収蔵されているこの兜はメス・カラム・ドゥグ王の黄金の兜といわれ、1920年代から30年代にかけてイギリスの考古学者であるサー・チャールズ・レナード・ウーリー卿が発掘しました。この冠は最近になって祭礼や儀式の際に用いる金製の鬘であるらしい事が判った)、1枚の金の板を裏と表から打出して作られています。接合部分が全くなく作られており、今から2600年前後の頃に作られたことを考えれば見事の一言です。ウーリーの『カルデアのウル』には、発掘のときの感動が以下のように記されています・・・骨は朽ち果てていたので、骸骨の薄気味悪さはまったくなく、ただ砕けた褐色の細片が数条筋を引くように残り、死者の姿勢を伺わせていたが、何よりも目を惹くのは黄金であり、まるで墓に入れられた時のように美しかった。朽ちた頭骸骨の断片をまだ覆っているその兜に視線はほとんど釘付けになった。兜は金の打出し細工で、頭から深く被るように作られ、頬当てがついていた。この兜はカツラのような形をしており、髪の巻き毛は打ち出しで浮き彫りにされ、髪の毛1本1本が繊細に毛彫りされている。中央で分けられた髪は、平たくうねった巻き毛をなして頭部をぴったりと覆い、捩った1本の髪紐でぐるりと縛ってある。髪の後方は束ねて小さな髷に結ってあり、髪紐の下ではきちんとした巻き毛が列をなして耳の周りに垂れ下がり、耳は高浮き彫りで表わされ、音を聞く妨げにならぬよう穴が開いている。頬当ての部の同じような巻き毛は頬髯を表わしている。兜の縁に沿って紐を通す小さな穴があるが、この紐は内側で詰め物を入れたキャップを固定させていたもので、キャップの痕跡もまだいくらか残っていた。金細工の作品の実例として、この兜は我々が墓地で発見したもののうち最も美しく、金の短剣や牡牛の頭部よりも見事なものである。もし古代シュメール人の芸術を判断しうる材料が他に全くないとしても、ただこの兜だけをもってしても、我々はやはりシュメール人が古代文明民族の中でも高度な文明を誇っていたと考えるべきだろう・・・と。

この発掘を通して見えてきた事は、メソポタミアの王たちは金細工師たちを雇い、レポゼやチェイシングなどの技術を使って、メス・カラム・ドゥグ王の黄金の兜の他にシェプ・アド女王の冠やロンドンの大英博物館に収蔵されている工芸品「木をかじる山羊(これは頭部と胸部には琥珀金[エレクトラム]、腹部には銀箔が施されている、何とも奇妙な像で、一説には楽器と云われている)」など高度なレベルのものが造られたという事です。

この時代から金細工師たちは王の近くにいて、王の気に入るように、様々な金の加工をしていたようで、かなりの地位があったと思われます。

またシュメールから出土されるシェプ・アドのヘッド飾りやネックレスなどにはカーネリアンやサードオニックス、ラピスラズリ、トルコ石などの色石が使われていますが、これらの石はイラクでは産出しません。お隣のイランやアフガニスタンなどから運ばれてきました。これはエジプト文明においても同じで、古代から現代に至るまで、交易を上手にやる国が栄えました。自国だけでやろうとすれば限界があり、発展はありません。それよりも他国から侵略を受ける可能性も大きいのです。スケールは違いすぎますが、なにやら現在の日本の宝飾品市場にも同じ事が云えるようです。
増渕邦治(ますぶち くにはる)

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2010/1/26 火曜日

ジュエリーの歴史6000年 [第1回]

Understanding Jewellery
ジュエリーの歴史6000年 [第1回]

ジュエリーの起源

ジュエリーの起源を考える前に、人類の進化についてみてみましょう。ヒトとサルの決定的な違いは「2本の足で歩ける=直立歩行」でしょう。440万年前にアウストラルピテクス(猿人)がサルから枝分かれしてヒトとしての道を歩み始めます。アウストラルピテクスの仲間にアファール猿人がありますが、1974年にエチオピア北部で発見された、アファール猿人のほぼ完全な標本は「ルーシー」という愛称がついています。キャンプ地で研究者が聴いたビートルズの名曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンド」に由来するそうです。

accessory02.jpgその後50万年前くらいになるとホモ・エレクトゥスという原人が現れます。ピテカントロプスという名で有名なジャワ原人や北京原人などがそうです。彼らの中でも北京原人は火を使う事を覚えます。そして20万年前くらいになると、旧人のネアンデルタール人、ザンビアのローデシア人、ジャワのソロ人が出現します。彼らは死者の埋葬を始めたり、呪術を行うようになります。ネアンデルタール人と次の世代の新人であるクロマニヨン人は、同じ時代に生きていたようですが、やがてネアンデルタール人は何らかの理由で滅びてしまいます。

どうも私たちの祖先はクロマニヨン人であるらしいのですが、人類の起源については他地域連続進化説とアフリカ単一起源説があります。どちらも起源はアフリカなのですが、前者はアフリカで誕生しユーラシア大陸に分散して原人に進化、さらに同時発生的に新人になったというもの。後者はアフリカで旧人に進化してユーラシア大陸に分散していった。これは今から20年前に遺伝子のルーツを母系で遡る研究で明らかになったのです。二人の人間のミトコンドリアDNAの差を調べると、いま生きている人類はすべて15-20万年前にアフリカにいた一人の女性、ミトコンドリア・イブの子孫になるというのです。

2003年にエチオピアのヘルト村近くで発見された化石から16万年前のものと確認され、オモ・キビシュから出土したホモ・サピエンスの化石の年代測定で解剖学的に見た現世人類の起源は19万5000年前まで遡れる事が解ってきました。そして現世人が理解、認識、意思伝達の能力を持つようになったかについては、「創造の爆発」といわれる4、5万年前とされています。フランスのショベ洞窟の絵画は炭素14法という年代測定法で3万2000年前のものと確認されており、ラスコーの南西約30kmにあるキュサック洞窟の線刻絵画は3万5000年前まで遡れると云います。

accessory01.jpgところが2005年に、南アフリカのケープタウンから約240kmのところにあるブロンボス洞窟で7万5000年前の地層から発見された複数の巻貝は、貝の口とは反対側に小さな孔が開けられており、ビーズ飾りのネックレスではないかと云われています(写真右。人類最古のアクセサリーと云われる貝製のビーズ。装身行為の起源を3万年もさかのぼらせた重要な発見)。また同じ洞窟で、骨器で模様が掘られたオーカー(ベンガラとも呼ばれ、酸化鉄が主成分の赤鉄鉱)が発見されています(写真左。“人類最古の模様”が刻まれたオーカー。シンボルを使った創造的活動がはじまった最古の証拠。)。これは肌を赤く化粧する時などに使ったと考えられ、いわゆるお洒落をする装身行為とみる事ができるのです。このような行為は偶然にできたのではなく、精神的な意志が伴うもので、やがてメソポタミアやエジプトなどの高度な文明の発達に繋がってくるのです。

stone.jpgこの装身行為をジュエリーの起源といってよいかも知れません。そして6、7千年前頃からメソポタミアやエジプトをはじめとする古代文明が生まれますが、この時代になるとジュエリーはかなりはっきりした形となってくるのです。

ジュエリーの起源については護符説や、ホモルーデンス説、自己異化説、自己同化説などいくつかありますが、護符説というのはお守り、外敵から自分を守ってくれるモノといえます。人間とは元来弱いものです。人間よりも強いモノを身につける事によってパワーが体の中に蓄積されエネルギーとして発揮されるといわれています。ホモルーデンス説は、人間は本来遊んだり楽しんだりする生き物ですが、そのためには鳥の羽など美しいもので飾り立てようとします。あるいはセックスアピールで自分に注意を向けようとします。人間が本来持ち合わせている根源的な行為といったら良いかも知れません。自己異化説は、人間はとかく他人と違っていたいという傾向があります。装身具を身につける或は入れ墨等をして自分との差別化を図るなど、他人と同じになる事を避ける、個性的という事もこの範疇に入るでしょう。自己同化説は、これとは反対に一種の帰属意識といえます。集団で生活する場合、同じものを身につける事により、団結心が強まり大きなパワーが生まれます。

1stfigure.gif私はこれらが複合的に作用してジュエリーが生まれてきたと考えています。私たちの祖先は精神的な意志を持つ事ができたのです。その意志によって生活や自分自身を飾るものなどの道具や行為が発達してきました。現在も私たちはこのような原始的ともいえる行為を大事にして生活しています。それは古い、稚拙と云うものではなく、人間が本来持っている根源的なものであるはずです。ジュエリーをつける行為は、しごく自然な行為であるといえるでしょう。

増渕邦治(ますぶち くにはる)

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