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2010/2/23 火曜日

ジュエリーの歴史6000年 [第2回]メソポタミア文明

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ジュエリーの歴史6000年 [第2回]

メソポタミア文明

現在古代文明と呼ばれるものにはメソポタミア文明、エジプト文明、黄河文明、インダス文明の4大文明が一般的ですが、エーゲ文明、ケルト文明、長江文明、四川文明、メソアメリカ文明、古代アンデス文明などを加える学者もいます。私は素人ですが人類の進化をみていると、地球上のあちこちで4大文明以外にも文明が発生したとみる方が妥当のような気がします。

クロマニヨン人を祖先に持つ新人は、5万年前頃にアフリカを起点として世界各地に散らばり、紀元前4000〜3000年頃に複数の地域で高度な文明を築きます。今後科学の発達と遺跡の発掘が進むと、私たちの祖先についてはもっといろいろなことが解ってくるかも知れませんが、どの文明も共通して云える事は、兎も角肥沃な土地と豊富な水を源泉として文明が生まれているということです。

またメソポタミア、エジプト、小アジア(現在のトルコ)を包括する地域をオリエントと云いますが、メソポタミア文明は現在のイラクを流れるチグリス、ユーフラテス川に挟まれた肥沃な土地に発生した世界最古の文明です。メソポタミアという名前は二つの大河にはさまれた土地を意味する古代ギリシア語からきています。この二つの河の河口付近ウルやウルクなどの都市にシュメール文明が生まれました。今から1万年前になると、この地に住む先住民たちによって、羊や山羊などの飼育が始められたようです。文明が起きるには、この農耕牧畜生活と村から都市が生まれることがとても重要です。
20100223.jpgその後この地にシュメール人がやってきます。シュメール人は紀元前2700年頃までに、麦からパンやビールを作りまた冶金青銅器を使い金、銀の細工モノなどを作っています。もともとメソポタミアでは鉱物、木材、宝石、金などは取れませんでしたから、農耕牧畜による余剰品と交換にこれらの天然資源を輸入する交易が盛んになってきます。

メソポタミは河口付近から奥に広がり、小アジアからシリア辺までの広大な地域をカバーしています。川を奥に遡るとアッカド王国、古代バビロニア王国、ミタンニ王国、ヒッタイト王国、アッシリア王国などが時代と共に乱立し、アッシリアのサルゴン2世がエジプトを含む全オリエントを統一する前8世紀まで、様々な民族国家が興亡を繰り返していきました。

古代文明の発生には、農耕牧畜と定住生活(都市化)の他に、大きな川とそれに挟まれた肥沃な三角州が必要です。インダス文明、黄河文明、エジプト文明、メソポタミア文明、みな豊かな川と肥沃な大地があったればこそです。そしてもう一つの要因は私たち人間がどんな時代でも富と権力の象徴として憧れる「金」があります。川があればそこに流れてくる砂金が目に留まらない訳がありません。人々は川の底にキラキラと輝く金に目をつけ、さまざまな加工を施し権力の象徴として、或は身を飾るものとして活用することを覚えました。

ジュエリーの歴史を紐解けば、そして古代に遡れば上るほど、眩いばかりの金の装身具や工芸品が登場してきます。しかし金は古代文明の時代から私たち人類と密接な関係にあったにも関わらず、歴史学の上ではそれほど重要視されていないのはどうした訳でしょう。青銅器時代とか鉄器時代とともに、金についても歴史学上でもっと扱い方はあるのではないでしょうか。

人類がいままでに手にした金の量は一体どのくらいあったでしょう。専門家によってまちまちですが大体13〜15万トン、オリンピックプール3杯分強といったところでしょうか。今後現在の技術や採算を考えた時に、地球でとれる埋蔵量はわずかに6、7万トンといわれています。それほど貴重な金は、何千年という悠久の時を経て私たちを魅了し続けてきたのです。

メソポタミアにおける金細工の特徴はレポゼ技法(金属の板を裏から打出す)やチェイシング技法(金属の板を鏨やポンチなどで表から線刻模様などを打ち込む)です。写真はウルから出土された金の兜です。現在イラク博物館に収蔵されているこの兜はメス・カラム・ドゥグ王の黄金の兜といわれ、1920年代から30年代にかけてイギリスの考古学者であるサー・チャールズ・レナード・ウーリー卿が発掘しました。この冠は最近になって祭礼や儀式の際に用いる金製の鬘であるらしい事が判った)、1枚の金の板を裏と表から打出して作られています。接合部分が全くなく作られており、今から2600年前後の頃に作られたことを考えれば見事の一言です。ウーリーの『カルデアのウル』には、発掘のときの感動が以下のように記されています・・・骨は朽ち果てていたので、骸骨の薄気味悪さはまったくなく、ただ砕けた褐色の細片が数条筋を引くように残り、死者の姿勢を伺わせていたが、何よりも目を惹くのは黄金であり、まるで墓に入れられた時のように美しかった。朽ちた頭骸骨の断片をまだ覆っているその兜に視線はほとんど釘付けになった。兜は金の打出し細工で、頭から深く被るように作られ、頬当てがついていた。この兜はカツラのような形をしており、髪の巻き毛は打ち出しで浮き彫りにされ、髪の毛1本1本が繊細に毛彫りされている。中央で分けられた髪は、平たくうねった巻き毛をなして頭部をぴったりと覆い、捩った1本の髪紐でぐるりと縛ってある。髪の後方は束ねて小さな髷に結ってあり、髪紐の下ではきちんとした巻き毛が列をなして耳の周りに垂れ下がり、耳は高浮き彫りで表わされ、音を聞く妨げにならぬよう穴が開いている。頬当ての部の同じような巻き毛は頬髯を表わしている。兜の縁に沿って紐を通す小さな穴があるが、この紐は内側で詰め物を入れたキャップを固定させていたもので、キャップの痕跡もまだいくらか残っていた。金細工の作品の実例として、この兜は我々が墓地で発見したもののうち最も美しく、金の短剣や牡牛の頭部よりも見事なものである。もし古代シュメール人の芸術を判断しうる材料が他に全くないとしても、ただこの兜だけをもってしても、我々はやはりシュメール人が古代文明民族の中でも高度な文明を誇っていたと考えるべきだろう・・・と。

この発掘を通して見えてきた事は、メソポタミアの王たちは金細工師たちを雇い、レポゼやチェイシングなどの技術を使って、メス・カラム・ドゥグ王の黄金の兜の他にシェプ・アド女王の冠やロンドンの大英博物館に収蔵されている工芸品「木をかじる山羊(これは頭部と胸部には琥珀金[エレクトラム]、腹部には銀箔が施されている、何とも奇妙な像で、一説には楽器と云われている)」など高度なレベルのものが造られたという事です。

この時代から金細工師たちは王の近くにいて、王の気に入るように、様々な金の加工をしていたようで、かなりの地位があったと思われます。

またシュメールから出土されるシェプ・アドのヘッド飾りやネックレスなどにはカーネリアンやサードオニックス、ラピスラズリ、トルコ石などの色石が使われていますが、これらの石はイラクでは産出しません。お隣のイランやアフガニスタンなどから運ばれてきました。これはエジプト文明においても同じで、古代から現代に至るまで、交易を上手にやる国が栄えました。自国だけでやろうとすれば限界があり、発展はありません。それよりも他国から侵略を受ける可能性も大きいのです。スケールは違いすぎますが、なにやら現在の日本の宝飾品市場にも同じ事が云えるようです。
増渕邦治(ますぶち くにはる)

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