Understanding Jewellery
ジュエリーの歴史6000年 [第4回]
エーゲ文明とジュエリー
現在エーゲ文明はクレタ文明(ミノス文明とも)、ミケーネ文明(ミュケナイ文明とも)、トロヤ文明の3つの文明の総称として用いられ、その起源は大体BC2000年頃と考えられているが、クレタ文明の前にエーゲ海のキクラデス諸島を中心にした文明がBC3000年頃に栄えたという説もある。その頃の様子はクレタ島の北に位置するサントリーニ島の壁画などからも伺えるが、これが事実とすれば、エーゲ文明はオリエントやエジプトと同じくらい古い文明で、世界各地でBC3000年くらいに、同時に複数の文明が爆発したという見方も出来よう。時代区分で云うと青銅器時代にあたる。
エーゲ文明の発祥地クレタ島のクノッソス宮殿の発見は、イギリスの考古学者アーサー・エバンスだが、それは1900年の事だった。その宮殿は1000室以上の小部屋を持ち、城壁はなく開放的な宮殿であった。自由で豊かな文化的正確を持った文明でもあった。クノソッス宮殿はしばしばギリシア神話に登場するミノス王にちなんでミノア文明とも呼ばれる。ミノア王はゼウスとエウロペの子である。エウロペはeuropeでヨーロッパの語源でもある。
ギリシア神話では有名なミノタウロス伝説がある。ミノア王が後で返すからという約束で海の神ポセイドンから美しい白い雄牛(一説では黄金の雄牛)を手に入れる。雄牛の美しさに夢中になった王はポセイドンとの約束を違えて、自分のものにしてしまうが、これに怒ったポセイドンはミノア王の妻パーシパエーに呪いをかけ、白い雄牛との間にミノタウロスを産ませる。ミノタウロスは成長するに従い乱暴になるが、ミノス王は部下のダイダロスに命じて迷宮(ラビュリントス)を建て、そこにミノタウロスを閉じ込めてしまう。そして9年毎に少年7人と少女7人をミノタウロスに生け贄として与えていたが、これに憤りを感じていたミノス王の娘アリアドネはアテネのテセウスと計り、見事ミノタウロスを打ち破るというもの。迷宮は一度入ったら出て来れないという複雑な構造を持っていたので、アリアドネは赤い糸玉をテセウスに渡し無事に迷宮を脱出する事ができた。
クレタ島の人々は民族的には地中海人種と小アジアの混血という説もあるがどうもはっきりしない。彼らは絵文字や線文字A(BC18世紀-BC15世紀頃までクレタ島で用いられたが現在未解読)と呼ばれる文字を使用し、高度な文明を築いていたことがわかっている。エーゲ海は大小様々な島で構成され、このため海上貿易が盛んであった。クノッソス宮殿などの遺跡から壮大な宮殿を営む為政者が会場貿易によって莫大な富を得ていた事は想像に難くない。
そのクレタ文明は、BC1400年頃まで栄えるが、数度に渡る火山の噴火や地震などやインド・ヨーロッパ語族の侵入などがクレタ文明に影響を与え、衰退を招いたといわれている。
また同じ頃に最初のギリシア人と云われるアカイア人がギリシア半島のミケーネ、ティリンスに南下してミケーネ文明を築く。やがてミケーネがクレタ島を征服してクレタ文明は終焉を迎える。代わってミケーネがエーゲ海を中心とした文明を築き、線文字Bを使い(現在ほとんどが解読されている)紀元前1200年頃まで栄えるのである。黒海の西側、ドナウ川とエーゲ海に挟まれた地域はバルカン半島と云われるが、この地域一帯は古くから金の産出地として知られていた。黒海の麓にあるヴァルナ遺跡(現在のブルガリア北東部、ヴァルナ市南西郊、ヴァルナ湖北岸にある金石併用時代後期(BC4500〜BC4000年)の墓地遺跡は1972年秋に偶然に発見され、81年末までに204基の墓が発掘された。大量に黄金製品(総重量6キロ)と銅器が発見されたことで知られ、メソポタミアやエジプトとほぼ同時か、あるいはむしろ古い時期に、バルカン半島にかなり高度の文化が発達していたことを示す証拠として注目されているが、ミケーネ文明もこれらの金を活用し、高度な文明を築いた。ギリシア人(アカイア人)はドナウ川流域からバルカン半島を越え、ギリシアに移動して来た事からも、金に対する知識と加工は十分に備わっていたのではないだろうか。
このミケーネと覇を競ったのが小アジアにあったトロイであるが、ミケーネはトロイを発掘したドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンによって1876年に発掘されて明らかになった。ミケーネ城内の墓から発掘された黄金のマスク(ミケーネの王アガメムノン)は金でできた葬儀用のマスクで、埋葬穴(円形墳墓群A5号墓)にあった死体の顔の上で発見された。シュリーマンはこれがアガメムノンの墓であると信じ、それ以来アガメムノンのマスクと云われているが、現在の考古学によればどうもBC1550?BC1500年のものであるらしい。このマスクは現在アテネの国立考古学博物館に展示されているが、ミケーネの竪穴墓で発見された5つのマスクのうちのひとつである。
シュリーマンはまたBC8世紀の吟遊詩人ホメロスが書いた叙事詩「イーリアス」に触発されて、トロイ戦争をトロイ郊外のヒッサリクの丘と特定し、1873年にいわゆる「プリアモスの財宝」(トロイの黄金とも云われるが、シュリーマンの妻の故郷であるギリシアに運ばれる。その後ベルリンに移動したが第2次世界大戦でロシア軍がベルリンに侵入した際に何故か忽然と消えてしまった。しかし最近、プーシキン博物館の地下倉庫に保管されている事が判明したが未だにベルリンに返還されていない)を発見し、伝説のトロイを発見したと喧伝した。
この発見により古代ギリシアの先史時代の研究は大いに進むこととなるのだが、同時に混乱を招く事になる。プリアモスとはトロイ戦争の切っ掛けになった、パリスの審判で有名なトロイ王パリスの父で同じトロイ王である。トロイ戦争はBC1150年頃と考えられているが、プリアモスの黄金が発掘されたヒッサリクの丘の地層はBC2500年頃のものであり、実際には1500年ほど古いものである事が判ってきた。
トロイ戦争の発端になった逸話はこうだ。エギナ島の王ペレウスが海の女神てティスとの結婚式に、エリスを招待しなかった。これに怒ったエリスは「もっとも美しいものに贈る」と書いた金の林檎を宴席に投げ込む。この結婚式にはギリシアの神々や英雄たちが列席していたが、ヘラ、アテナ、アフロディテの3人が「私が一番美しい」と言い出して収拾がつかなくなった。そこで天の支配者であるゼウスは、トロイ王のパリスに判定してもらえと言う。3人はパリスの前で、それぞれ自分を選んでくれたら約束を守るという条件を出します。ゼウスの妻で結婚の女神ヘラは「世界の支配権」を、戦いの女神アテナは「戦での勝利」を、美と愛の女神アフロディテは「美しい妻」を約束するのですが、パリスが心を動かされ金の林檎を与えたのは、美の女神アフロディテであった。何時の時代でも男は美女に弱いのだ。そしてパリスに与えられる世界一の美女は、スパルタ王メネラオスの妃ヘレネであったことから物語はややこしくなる。パリスがスパルタの王宮を訪ね、王がクレタ島出張の留守を見計らい、トロイに連れ帰ってしまった。全てアフロディテの企てである。これに怒ったのがスパルタ王メネラオスで、全ギリシアの英雄を集めトロイへの復讐の軍を起こす。これが延々と10年続くのである。ギリシア軍の総大将は、メネラオスの兄アガメムノン、ペレウスの息子アキレウス、 知恵者のオディッセウスなどそうそうたるメンバー。一方のトロイ軍はプリアモス王の長男ヘクトル・アイネイアス、美と愛の女神アフロディテ、太陽神アポロンが付いていた。しかし戦争の不条理な殺戮、略奪行為に対してオリンポスの神々は許すことはなかった。そのためトロイ、ギリシアの両軍に悲劇が次々と起きる。このたくさんの悲劇をギリシア神話は延々と語り継いでいるのだが、これを著したのがホメロスの「イーリアス」「オデュッセイア」であり、トロイ戦争は史実が神話化された物語であったことを証明したのがシュリーマンである。
トロイ戦争はミケーネが勝利するが、ミケーネはギリシアの別の民族であるドーリア人によって滅ぼされる。また一説には海の民のよって滅亡されたとも云われるが、この海の民がどのような民族であったのか実はよく判っていない。ミケーネの滅亡後ギリシア半島ではBC900年頃まで文字による記録が残っておらず、暗黒の時代などと呼ばれている。
エーゲ文明が発達したのは、豊富な金の産出によるものではないか。というのはギリシアの東タソス島やテッサロニキ周辺、ドナウ川の南トラキア地方(現ブルガリア)、バルカン山脈、ロドビ山脈周辺は古代から金を産出した。またトロイの南からも金が産出している。ギリシア半島はこうした金に恵まれて、小アジアや黒海周辺に多くの植民都市を形成して栄えた。
シュリーマンが発掘したプリアモス財宝の一部を着用した妻のソフィア・シュリーマン(写真、右上段)。これだけ見てもトロイの財宝がいかに凄いかが想像できよう。
写真左:アガメムノンの仮面。ギリシア神話でもっとも有名な一人で、ミケーネの王としてトロヤ戦争の総指揮官であった。ただ彼が実在の人物であったか神話の人物かははっきりしない。発見したのはシュリーマンで、埋葬穴(円形墓群A5号)にあった死体の顔の上にあった。シュリーマンはこれをアガメムノンの墓であると信じ、それ以来アガメムノンの仮面として一般的である。しかしながら考古学上では、この仮面はBC1550?BC1500年頃のものとされ、アガメムノンの時代よりも早いとされている。またこの仮面はミケーネの竪穴墓の中で発見された5つの仮面のうちのひとつであり、アガメムノンの仮面の信憑性が疑問視されている。アテネ国立考古学博物館所蔵。
写真右下:2匹の蜂(スズメバチまたはミツバチ)。クレタ島クリソラッコスの墓地で出土、粒金の作例(中央の丸い部分)としてはもっとも古い。BC1800?BC1600年頃。ヘラクリオン美術館所蔵。ペンダント。ギリシア人はエーゲ文明の頃から金銀細工師として活躍やがてBC800年頃の古代ギリシアの時代、金工技術はアナトリア半島(小アジア)やメソポタミア、スキタイやトラキアなどの植民都市へ伝わっていく。
増渕邦治(ますぶち くにはる)
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