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2010/3/26 金曜日

ジュエリーの歴史6000年 [第3回]

Understanding Jewellery
ジュエリーの歴史6000年 [第3回]

古代文明はエジプトやメソポタミアを中心としたオリエント圏で高度に発展しました。世界の各地で文明が発生すると、都市が建設され階級が生まれ、そこで生活する人々を統率する人(王)があらわれます。王は民衆と区別を付ける為に、特別なものを身につけることによって力を示すようになります。この特別なもののひとつにGOLD(金)がありました。

金は地球が生まれた時から元素として存在していました。その元素が地殻変動によって地表地殻に持ち上げられ、世界のあらゆる場所で鉱石に含まれ、或は砂金となって私たちの前に登場してきました。

人類がはじめて金と遭遇したのは、川の中でキラリと光る砂金を発見したときではないでしょうか。それは何よりにも増して煌めき、神々しくあったのです。

金の特性は空気中で酸化せず、他の金属と化合せず、展延性があり、減りません。このような特性は他の金属や宝石ではあり得ず、だからこそ古代に於いて金を征するものは世界を征服したことは歴史が証明しています。

銅を使い出したのはメソポタミアのシュメール文明の方が古いのですが、金を用いたのはエジプトの方が古く初期王朝のナルメルの時には既に、何らかの金の細工品がつくられています。エジプトでは古くからナイル川上流とアスワンの南からスーダンにかけたヌビア地方、第5急端の東側のプント(正確な位置は現代でも特定できていない)などが金を産出することで知られていました。

エジプトの金を語るとき、ヌビア地方を抜きにすることはできません。代々のファラオはたびたびヌビアに遠征を送り、金の管理と調達にエネルギーを費やしました。18王朝のハトシェプストは、アモン神の神託によりヌビア、プントそしてシナイ半島まで遠征隊を送っています。

3tc.jpgまたエジプトの歴史の中で、テーベに都をおき25王朝を築いたピアンキはヌビア人による王朝で、アッシリアに征服されるまで約80年ほど続きました。紀元前750年頃の事です。古代エジプトの歴史の中で肌が黒い種族が王朝を築いたのはヌビア人だけですが、この頃になると金の産出量はかなり少なくなってきたようです。

古代の王たちは死ぬと必ず蘇ると信じ、自分の王墓に夥しい量の宝飾工芸品を運び封印しますが、墓泥棒たちによって盗み出され、特に金製品は鋳潰されてしまいます。

現在残されているもので最高傑作とされるもののひとつに、古代エジプト第18王朝のファラオ、ツタンカーメン王(在位:1333-1324年頃/より厳密な表記ではトゥトアンクアメン[Tut-ankh-amen]という)の黄金のマスクがありますが、このマスクを超えるものは新王国時代には沢山作られたことでしょう。

マスクに用いられた金は10kg、またツタンカーメンのミイラが収められていた棺は3重になっているのですが、これに用いられた金の総量は110kgにのぼります。

ツタンカーメンから少し時代は下がりますが、第21王朝のプスセンネス1世の墓は、ツタンカーメンが一部盗掘されていたのに比べ、完全無傷で発掘されています。この墓から発掘されたプスセンネス1世の黄金のマスクは、ツタンカーメンほど豪華ではありませんが、素晴らしいものです。

18王朝から20王朝の新王国時代、そして第3中間期にかけての21王朝あたりは、エジプトの美術・工芸が最も豪華に華開いた時代でもあります。しかし現存しているものは一体幾つあるのでしょうか。金は人間によって最高のものを作ったかもしれませんが、破壊され鋳つぶされてしまっているのです。

ジュエリーの素材としては、金が中心で、銀はほとんど使われていません。古代に於いて銀は純粋な銀の形で産出される事は稀で、他の元素との化合物として見つかることの方が多かったことによりますが、エジプトでは銀は何故か産出されなかったようです。

3hayabusa.jpg宝石類についてもエメラルド、ラピスラズリ、カーネリアン、トルコ石、シリカガラス、ファイアンス(焼き物の一種で石英の粉末に油を加えて成形し、その上に釉薬をかけて焼成)など青や赤の明るい色調を好みました。古代文明の中でこれほどまでに、色彩豊かな表現をしている文明は他にありません。
クレオパトラで有名なエメラルドはシナイ半島からもたらされ、ラピスラズリやトルコ石はアフガニスタン地方から運びこまれました。

また新王国時代のツタンカーメンの胸飾りや眼に使われているシリカガラスは、エジプト南西部ギルフ・ケビールの北50キロでしか採取できないものでリビアングラスとも呼ばれます。このグラスは隕石の落下の衝撃により、地表の岩盤が一旦持ち上がってから加速度をつけて地表を押しつぶした時の圧力と超高温で岩石の一部が溶けできたものであるという説があります。

2006年吉村作治教授等が、ツタンカーメンのマスクを調査していますが、このレポートでは、シリカガラスについては全く触れられていないようです。

さらにこのレポートでは純金のマスクの表面に微細(ナノメートル単位)の金粉にニカワを混ぜて、薄い膜として表面を覆っていると記しています。金粉をつくるには、金の板をヤスリ状のものでごしごし削って粉末状にするわけですが、この時代に金をナノメートル単位の微細な金粉にすることは果たして可能なのか、疑問のあるところです。

エジプト王朝はその長い歴史の中でたびたび異民族の迫害を受けます。最初の侵入は第2中間期の15王朝を創設したセム語族のヒクソスでした。その後第3中間期の25王朝を築いたヌビア人による王朝です。

ヌビアはエジプト統一王国ができる以前から、たくさんの金をエジプトにもたらしました。エジプトは1万年以上前にスーダンやエチオピアに住んでいた民族が北上してきて建国したとも云われています。またヌビア人はエジプト王国の中で唯一黒人系の民族でもあります。

19王朝のラメセス2世は67年の在位中常時500人を越える女性を後宮囲い、100人を超える子をなし、7人の女性を妃にしたと云われていますが、その中にクレオパトラやネフェルティティと並び歴史上の美女とされているネフェルタリがいました。彼女はヌビアの王女アイーダの生まれ変わりと云われています。

ネフェルタリを祀るアブシンベル小神殿がヌビアの方角を向いているというのも頷けますし、このような伝説もヌビアが金の豊富な産出国であったが故の事かも知れません。

その後アッシリアが侵入し、紀元前525年にペルシアのカンビュセス王によって征服され、エジプトはペルシアの属州になりますが、それまでの2000年間エジプトの美術様式にほとんど変化が見られないというのも大きな特徴です。

そして私たちが通常使っているブローチを除いた装身具類はすべてこの2000年間に形成されているのです。エジプトの装身具で特徴なのは、他のオリエント諸国が殆どゴールド、或は色石を使っても単色で使っているのに比べ、実に多彩複雑に色石を組み合わせ、豪華に仕上げている事です。ここまで色彩豊かな装身具は現代に通じるものがあり、私たちが大いに参考にする必要がありそうです。

やがて紀元前332年、マケドニアのアレクサンドロス大王が、エジプトを支配していたアケメネス朝ペルシアを撃破し、新しい首都アレクサンドリアを創設します。プトレマイオス朝はマケドニアの王アレクサンドロスが建設した王朝で、ギリシアのヘレニズム文化の影響を受けながらエジプト文化を継承します。

しかしアレクサンドロス大王は323年急死し、その後をプトレマイオス1世が引き継ぎます。プトレマイオス朝に使われた金はナイル上流のビシャリー金山から産出される金でした。ナビアの金は新王国時代を過ぎると産出量が少なくなりましたが、ビシャリー金山は健在でした。この金山はローマ時代まで続きます。

プトレマイオス朝のクレオパトラ7世の時に、ローマ軍によって滅ぼされてしまいます。紀元前30年の時です。その後西暦642年アラブ人の将軍アムルによってエジプトが侵略されるまで、ローマ帝国の支配下にありました。以後エジプトは現在に至るまでイスラム教圏としての歴史を歩んでいくのです。

増渕邦治(ますぶち くにはる)

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