ジュエリーの歴史6000年 [第5回]古代ギリシアとトラキア
Understanding Jewellery
ジュエリーの歴史6000年 [第5回]
古代ギリシアとトラキア
古代ギリシア
ここでいう古代ギリシアとは暗黒時代を経てポリス国家群が成立したBC8世紀の中葉からアレクサンドロス大王がオリエントを征服し、BC323年に没するまでの約430年間を包括しています。BC12世紀末に、海の民の侵入によってミケーネ文明が滅ぶと、BC8世紀の中葉までの約400年間ギリシアの文字による記録が途絶えてしまい、この間のギリシアの歴史がよく判っていません。これをギリシアの暗黒時代と呼びます。しかし陶器などには幾何学模様が描かれるなどしていることから「幾何学文様時代」などと呼ばれることもあります。
その後8世紀の半ばになりギリシア各地にポリス[都市国家]が出現するに至って、ギリシア文化が大きく華開くことになります。そしてBC8世紀末にはギリシア西南部、クレタ島をエーゲ海の島々、アナトリア西海岸にまでポリス国家とギリシア文化の影響は広がっていたと考えられます。さらにBC6世紀頃にはスペインのバレンシア、アンダルシア、カタルーニャ、フランスのマルセイユやニース等にまで拡大し、第二の本拠と云えるイタリア南部とシチリア島などに植民都市を建設しました。ヘロドトスが書いた「歴史」はBC5世紀のアケメネス朝ペルシアと古代ギリシアの諸ポリスとの戦争[ペルシア戦争]を核としてペルシアの建国および拡大、オリエント世界各地の歴史などを纏めたものです。
ポリスは大小様々でひとつひとつは領土も小さく、市民と呼ばれる自由民男子とその家族は3〜10万人、奴隷5〜10万人の人口で構成されていました。ポリスは古代マケドニアがBC338年にカイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、全ギリシアを統一するまでそれぞれの自立を保っていました。
また古代ギリシアは2つの時代に分けられ、前半はBC750〜BC480年頃をアルカイック時代[前古典時代]、BC480〜BC323年頃をクラシック時代[古典時代]といいます。研究者によってはBC323〜BC30年までのヘレニズム時代を包括するようですが、ここではヘレニズム時代は別のくくりとして述べます。
BC750年〜BC30年頃のヨーロッパは、古代ギリシアを中心に各地で多様な文化が生まれ、また国家間の争いで目まぐるしく領土が変化します。それだけに歴史という視点で見ると実に面白く、興味深いものがあります。
古代ギリシアのジュエリーは圧倒的に金や銀製のものです。技法的にもイタリア中西部のエトルリアが得意とした粒金(グラニュレーションは古代ギリシア人の手によって作られたもので、金の表面に微細な金の粒を大量に連続してつける技術)やフィリグリー(細い金の線を金のベース部分に張り付け装飾を施したもので、これを応用して19世紀初頭の英国でオープンワークの技法で作られ、カンティーユと呼ばれた)などの技法で盛んにジュエリーが作られています。ギリシアの金の山地として特定できるのはパンガイオン金山やテッサロニキ、タソス島などです。
黒海沿岸やトラキア(現在のブルガリア)、ドナウ川の南の山岳地帯には古くから金が産出され、これと古代ギリシアのジュエリー技術が融合して、金によるジュエリーは高度な発達を遂げます。またギリシア独特の意匠(デザイン)も顕著で、小アジアのアナトリアやスキタイなどにも影響を与えました。
古代ギリシア人の造型感覚は完璧で、特に人体に対する表現は、その後のヨーロッパの総ての基本になり、古典主義やルネサンスなどはじめとする美術様式は、時代の変革期になると常に「ギリシアに帰れ」と云われ美術の模範とされてきました。
しかし民主主義国家群としてのポリスはBC5世紀前半から大帝国ペルシアとの再三に亘る戦争やBC431〜BC404のペロポネス戦争(アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、全古代ギリシア世界を巻き込んだ戦争)、レウクトラの戦い(BC371年にエパメイノンダスに率いられたテーバイを中心とするボイオティア軍が、当時ギリシア最強を謳われたスパルタを中核とするペロポネソスの同盟軍勢を破って、テーバイが古代ギリシアの覇権を握る契機となった)などを経てポリス国家群は衰退していきます。
トラキア
古代ギリシアの影響を受けながら、独特の金製品(ジュエリー)を作り出した国がトラキアです。黒海の西、ドナウ川の南、現在のブルガリアを中心とした一体は、近年黄金製品が多数発掘されています。
この地域で金を使い出した歴史は古く、黒海沿岸のヴァルナと云う墳墓から総計2000点、総重量6kgにものぼる金製品が出土し「世界最古の黄金文明」と云われています。このヴァルナ遺跡はBC5000年の頃と思われ、石器時代にはすでに金製品が造られたことになります。そしてこのことはメソポタミア・ウルの王墓から出土された王冠や装身具類と比べても1500〜2000年近く時代が遡るのです。これらの金製品の金が何処から産出されたかは特定できませんが、恐らくバルカン山脈とロドビ山脈に挟まれたスレドナ・ゴラ山地周辺のブルガリア全土ではないかといわれています。
時代は下がってBC1300〜BC1200年頃のものとされるヴァルチトラン遺跡からも、金製品が出土されているのですが、その後途絶え、トラキア文化の繁栄期であるBC5〜BC3世紀頃まで空白の時代になっています。トラキアの金製品で特徴的なのは、墳丘墓から発見されるものと集落などから発見されるものがあります。前者は王や王族の副葬品として納められているので、或る程度の来歴を知る手がかりになりますが、後者はその発見が偶然によることが多く、歴史的な来歴を掴むのは困難なことが多いようです。
トラキアの遺宝と云われる金製品が最初に発見されたのは1851年、シュリーマンがトロイヤを発掘しプリアモスの黄金(トロイヤの黄金)を発見したのが1873年ですから、それよりも20年も前の事になります。その後1920〜30年代にプロヴァディブ近郊のドヴァリン村の複数の墳丘墓からトラキア王家の豪華な金製品が発掘されます。また21世紀の大発見といわれる2004年発掘されたシプカ村にあるスヴェティツア墳丘墓からは、トラキア王の黄金のマスクが発掘されます。この黄金マスクはシュリーマンがトロイヤで発掘されたとするマスクと大変よく似ており、しかも重量が672gもある堂々たるものです。このマスクのモデルはオドリュサイ王国を築いたテレス1世である可能性が高いようです。発掘を担当したキトフ教授によれば「これはフィアラ杯に顔を近づけて、ワインを飲み干そうとする王の顔であり、実際に王がフィアラ杯からワインを飲み干そうとする姿が、他の人からは王が普通の人間から黄金の人間に変身するように映り、王の持つ能力と超自然的な神正を信じるのである」と述べている。このような想像を広げられるのも黄金の持つ魅力と云えるのかもしれません。トラキアは黒海沿岸を基地とした海外貿易により発展しますが、同時に海外からの侵入も余儀なくされ、古代ギリシアの植民都市、古代ローマの圧迫、ヴィザンティ帝国の基地など目まぐるしく歴史の波に翻弄されていきます。
写真A:
ネックレス。BC5世紀前半。球形垂飾径1.3cm。重さ91g。ブルガリア国立博物館。41個のパーツからなるネックレス。20個の球形垂飾パーツと19個の溝付きパーツそれに2個の円筒型パーツで構成されている。同じパーツを何個も作るには恐らく粘土型キャストで原型を作り、金を流し込んでいると思われるが、よく見ると細部にわたって丁寧な仕事がしてあるのがわかる。恐らく技術的にはギリシアの影響を受けている。
増渕邦治(ますぶち くにはる)
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